〈それ〉がない日記⓪
はじめに
その男は全部もっています。世界中の、とは言わないけれど少なくとも日本の〈それ〉は全部です。だからと言ってその男は自慢するでもなく、さも当然のような顔で生活しています。
なにせそれを手に入れたのは5歳のときだったのですから。それから40年の月日が流れ、現在45歳。もう人生の半分を生きてきたその男は、〈それ〉の価値にようやく気づきました。自分がもっている〈それ〉を全て残さなくてはいけない。失ってはならない。そんなふうに思ったのでした。男は〈それ〉を慈しむように日記をつけることにしました。
その男は全部もっています。でも落としたり、見失ったり、誰かに貸してしまったりして〈それ〉が全部が揃う日はなかなかありません。
〈あ〉〈い〉〈う〉〈え〉〈お〉
〈か〉〈き〉〈く〉〈け〉〈こ〉
〈さ〉〈し〉〈す〉〈せ〉〈そ〉
〈た〉〈ち〉〈つ〉〈て〉〈と〉
〈な〉〈に〉〈ぬ〉〈ね〉〈の〉
〈は〉〈ひ〉〈ふ〉〈へ〉〈ほ〉
〈ま〉〈み〉〈む〉〈め〉〈も〉
〈や〉 〈ゆ〉 〈よ〉
〈ら〉〈り〉〈る〉〈れ〉〈ろ〉
〈わ〉 〈を〉 〈ん〉
これが男のもっている全部です。男はいつも何か〈それ〉の存在を忘れてしまうのです。私たちはどうでしょうか。〈それ〉にどれほどの意識を向けているでしょうか。落としたり、見失ったり、誰かに貸してしまったりしていないでしょうか。
さて、その男の日記から私たちにとって人生でいちばん大切な〈それ〉が何か、考えるとしましょう。