〔ショートストーリー〕紫陽花
「紫陽花を少し、分けていただけないでしょうか」
水曜の午後、チャイムの音に玄関まで走ると、見慣れない美しい女性が頭を下げてそう言った。訝しそうな私を見て、彼女は慌てて続ける。
「あ、突然こんな不躾なことをお願いして申し訳ありません。私の家にはピンクの紫陽花しかなくて、こちらの青い紫陽花があまりにも綺麗だったので、挿し木をさせてもらえないかと…」
聞くと、最近この辺りに引っ越してきたばかりだという。初めての庭付きの家が嬉しくて、プランターやら地植えやらでいろいろな花を植えてみたのだが、その中に青い紫陽花は無かったそうだ。
「以前、散歩でここを通りかかったとき、見事な青い紫陽花に目を奪われて…。いくつかホームセンターもまわってみたけれど、こちらのお宅ほど鮮やかな青に出会えなかったので、こうして図々しくお願いに来てしまいました」
確かに、庭の紫陽花は私のちょっとした自慢だ。毎年「うわあ、綺麗ね」などと通行人の声が聞こえるのが嬉しくて、一番熱意を持って手入れしている。年々、株も大きくなっているので、挿し木にする分くらい譲っても問題は無い。ただ…
「それは構いませんが、紫陽花の色は土で変わるので、そちらに植えるとピンクになるかも知れませんよ」
私がそう告げると、彼女は驚いた。
「えっ。そうなんですか。済みません、何も知らなくてお恥ずかしい…」
ほんのり頬を染めて、小さな声で謝る彼女が、可愛らしくも気の毒になってしまう。
結局、私は庭の紫陽花を挿し木用に3本、ついでに大きくて綺麗な花がついたものを観賞用に2本、花鋏で切ると新聞紙でくるっと巻いて渡した。これ以上説明するより、自分で植えてみれば一番分かりやすいと思ったのだ。彼女は何度もお礼を言い、嬉しそうに紫陽花を抱えて帰って行った。
その日の夜、帰宅した夫にその話をした。
「え?あんなに大事にしている紫陽花、分けてあげたの?ほんとに良かったの?」
とても意外そうに言う夫に、
「うん。だって、あんなに大きくなったから、少しぐらい分けてあげても問題ないし。それにさ、すごい褒められて、何だか嬉しくなっちゃって」
夫は声を出して笑った。
「まったく、君は褒められると弱いよなあ」
「まあね。でもあなた、私の紫陽花のこと、心配してくれたんだね。ありがと」
夫は私の言葉に照れるように、
「いや、お礼言われるようなことじゃないよ。君がどれだけあの紫陽花を大事にしているか知ってたから、ちょっとビックリしただけだよ」
と少しドギマギしている。それがおかしくて、顔を見合わせると二人で吹き出してしまった。
翌週の水曜の午後、また彼女はやって来た。有名店の洋菓子の箱を携えて。
「この間はありがとうございました。ささやかなんですけど、お礼に受け取っていただけたらと思って」
「そんなに気を遣わなくて良かったのに。何だか申し訳ないわ」
恐縮する私に、彼女は微笑んで言った。
「いいえ、私、本当に嬉しかったんです。いきなり失礼なお願いをしたのに、とても親切にしていただいて。挿し木は今のところ上手く行っていますし、いただいたお花は玄関に活けたんですよ」
ここで少し、はにかむように笑った。
「そしたら、主人も『見事な紫陽花だね』と喜んでくれて。すぐにでもお礼をと思ったけれど、挿し木が落ち着くのを待っていて、遅くなりました」
彼女の声は優しく柔らかく、話し方もとても心地良い。私は、もう少し彼女と話したいと思った。
「それなら良かったわ。じゃあ遠慮なく、お菓子いただきますね。あの…もし良かったらお茶でもどう?」
「え?でも、ご迷惑じゃ…」
「ううん、ちょうど家事も一段落して、お茶でも飲もうかと思ったところだったの」
「本当に?じゃあ、お言葉に甘えて…」
この日から、彼女との交流が始まった。
彼女とは、お互いの家を訪ね合うようになったが、それは決まって水曜日だった。その日は彼女の夫が遅出なので、帰りもいつもより遅いのだと言う。時には二人で買い物に出かけることもあったが、大抵はどちらかの家で他愛のない話をして過ごしていた。彼女の家では挿し木の紫陽花が無事に根付いて、気が付くと小さなポットから植木鉢に植え替えられていた。
第一印象通り、話せば話すほど、彼女はとても気持ちの良い女性だった。決して出しゃばることなく、かと言ってよそよそしい訳でも無い。程よい気遣いと距離感を持ち合わせていて、打ち解けるのにそう時間はかからなかった。
「実は、夫のことで悩んでいて…」
何度目かの水曜日、彼女は私に打ち明けた。
「悩むって、何か問題があるの?」
「ええ、実は…」
彼女の一番の悩みは、夫のモラハラだった。付き合っている頃はそんなことはなかったのに、結婚した途端、掃除、洗濯、食事、全てに一言は文句を言わなければ気が済まなくなったという。大声で叱られたり、暴力を振るわれることはないそうだが、毎日あちこちにダメ出しされるのは精神的にキツいはずだ。
「でも、褒めてもらえることはほとんど無くて…。だから、あの紫陽花を褒めてもらったとき、すごく嬉しかったの」
彼女は庭に目をやると、少し疲れたように笑った。
「私にも夫にも友だちが少なくて、家を行き来するような人たちはいない。だから、どういう夫婦が普通なのか、きっと二人とも分かっていないんだと思う」
私は彼女の夫に腹が立つと同時に、不謹慎だが、少し興味がわいた。彼女をここまで悩ませるなんて、どんな男なんだろう。会ってみたい、と思った。
「じゃあさ、今度、二人でうちに遊びに来てよ。土曜か日曜がいいな。夫にも話して、協力してもらうから」
「協力…?」
「そう。出来るだけ自然に、お互いに褒め合う夫婦の姿、見せてあげる」
私が悪戯っぽく笑うと、不安そうな顔をしていた彼女もつられて笑った。
それから2週間後の日曜日、彼女は夫と二人で我が家にやって来た。手にはこの間とは違う有名店のケーキの箱を提げている。
「いつも妻がお世話になっています。今日はお言葉に甘えて、僕まで図々しくついてきてしまいました」
彼女と二人、軽く頭を下げる。初めて見る彼女の夫は、スラリと背が高く、美しい顔立ちをしていた。声のトーンも柔らかく、とてもモラハラ夫には見えない。人は見かけに寄らないとは、良く言ったものだと思う。
「こちらこそ、せっかくのお休みに無理に誘ってしまったのではと、妻と心配していたんですよ」
私の夫が言う。なるべく彼女が夫に叱られることがないよう考えた、打ち合わせ通りのセリフだ。
「いえ、とんでもないです。僕らは友人が少なくて、こうしてお招きいただいてとても嬉しいんです。どうか今後とも、よろしくお願いします」
「こちらこそ。さあ、どうぞ上がってください」
男二人のやり取りを見ながら、私と彼女はそっと微笑みあった。
予想以上に、夫たちは気が合ったらしい。好きな映画やスポーツの話で盛り上がり、たった1日ですっかり打ち解けてしまった。こちらが拍子抜けするほど仲が良くなった夫たちを見て、私たちも嬉しかった。美味しいケーキと紅茶を味わいながら、楽しい時間はあっという間に過ぎて行く。
「今日は本当に楽しかったです。今度は、うちへいらしてください。庭でバーベキューなんてどうですか?」
「ああ、それは良いですね!ぜひ」
男二人の会話に、私たちは微笑みながら頷いた。
こうして家族ぐるみの付き合いは、しばらく続いた。私は相変わらず彼女と二人で水曜日のお茶会を楽しんでいたが、会う度に彼女が明るくなっていくのが分かった。
「最近、ダメ出しされるのが減ったの。お料理もたまには褒めてくれるようになったんだけど、今まで褒められてなかったから、何て返事して良いのか分からなくて」
嬉しそうに笑う彼女に、私は言った。
「そういう時はね、『ほんとに?わあ、嬉しい!』って素直に喜べば良いのよ。だって、嬉しいんでしょ?」
「あ、そうか。素直でいいのね」
「そうよ。そんなに深く考えなくていいの」
彼女はキラキラした瞳で頷いた。
「本当に、お二人のおかげよ。いつも『ありがとう』を言い合って、小さなことでも褒め合って、すごく素敵で憧れちゃう。最近では夫も私も、お二人のような夫婦になりたいね、ってよく言ってるの」
私は顔が赤くなるのを感じる。
「いや、そんなこと。そっちこそ、美男美女でとってもお似合いじゃない。うちの夫も『なんか眩しい二人だな』なんて言ってるのよ」
「えっ。そんなこと…」
今度は彼女の頬が赤らむ。心から嬉しそうな彼女は、出会った頃よりもずっと輝いて見えた。こんな日がずっと続くのだと、あの頃の私は思っていた。
やがて夏が過ぎ、庭の紫陽花の葉が落ち始めると、水曜日のお茶会はほとんどなくなってしまった。彼女が何かと忙しくなったようで、予定が合わなくなってしまったのだ。それに伴って家族ぐるみの付き合いも減ってしまい、何となく寂しく思っていた頃、突然、夫が消えた。
帰宅時間を過ぎても帰らない夫を心配し、会社に電話すると、昨日付で退職したという。慌てて彼の机の引き出しを開けると、便箋が一枚置いてあった。そこには『すまない。家の名義は君に変えてあるから、好きにしてくれて構わない。さようなら』と書いてある。震える手で便箋を持ち上げた時、もう一枚、ハラリと紙が落ちた。拾い上げてみると、それは夫の欄だけが記入された離婚届だった。
呆然と立ち尽くす私の耳に、けたたましい電話の音がきこえる。フラフラしながら何とか電話まで辿り着き、受話器を取るや否や、悲鳴のような彼女の夫の声が聞こえた。
「あ、あの、妻がいなくなったんです!短い書き置きと離婚届だけ残して。どういうことなのか、全く分からないんです。何かご存知ありませんか?!」
その瞬間、キーンと私の中で何かが凍る感覚があった。受話器が手から滑り落ち、私も膝から崩れ落ちる。とても寒い。ガタガタ震える自分の体を抑えるように、両手でギュッと抱きしめる。
夫と彼女は、二人で逃げたのだ。
視界の隅に、庭の紫陽花がぼんやりと見える。茶色い葉がまだ少し残っているが、今はほとんど枯れ木のようだ。
ふと、彼女は紫陽花の挿し木をどうしたのか気になった。あの鉢植えは持って行ったのだろうか。それとも、もう彼女は見捨てて行ったのか。もしも持って行ったとしたら、また来年には花が咲くかも知れないが、その花は果たして何色だろう。
そして気が付いた。紫陽花が土壌によって色が変わるように、男と女も相手によって変わることに。彼女という土壌で、私の夫は咲けるのだろうか。美しい青を失い、褪せたピンクになるのではないだろうか。それとも、咲くことのないまま茶色く枯れてしまうだろうか。逆に彼女はどうなのだろう。
受話器からはまだ、彼女の夫の声が聞こえている。私は何か言わなければと思いながらも、力が入らず動くことができない。ただぼんやりと、絡み合いながら枯れて朽ちていく二本の紫陽花を想い浮かべ、呪うように泣き続けていた。
(完)
締め切りを過ぎてしまったのですが、こちらで書かせていただきました。
小牧さん、もし締め切り後で扱いが難しいなら、どうぞスルーしてください!予定より長くなりすぎて、時間がかかりすぎました💦次からは締め切りに間に合うよう、努力しますm(_ _)m
読んでくださった方、どうもありがとうございました。