〔秋ピリカ〕紙切れ一枚
紙切れ一枚で、家族にも他人にもなり、人生が変わる。不思議なシステムだと秋乃は思う。
「これで僕たちは晴れて夫婦だよ」
孝史が婚姻届にサインし笑った。
「まだよ。ちゃんと提出しなきゃ」
秋乃は苛立ちを隠し、孝史が喜ぶ甘えた声で拗ねる。案の定、孝史はますます鼻の下をのばして笑った。バカな男。腕のいいシェフだけど、料理を除けば何の魅力もない。それでも秋乃は微笑み返した。
孝史の離婚が成立したのは先月。前妻の亜美と幼い息子の貴仁は、荷物をまとめてこのマンションから出て行った。慰謝料で孝史の預金はほとんど無くなったが、マンションを買ったばかりだったから仕方ない。
「ね、これで保険金の受取人も、私に変えてくれるよね?私の保険は、受取人を孝史さんに変えたんだよ?」
秋乃の言葉に、孝史は目を逸らす。こいつ、まだグズグズ言う気だ。秋乃は脳内で盛大に悪態をついた。
「でもさ、俺は親としての義務を放棄しただろ?だからせめて、保険金はそのままでもって……」
秋乃はワッと泣き出した。
「酷い!やっぱり私よりも前の奥さんと息子さんの方が大事なのね!私のことなんてどうでもいいんだわ!」
途端に孝史はオロオロし、必死に秋乃を宥めようとする。
「いや、だから新しく保険に入り直すよ。向こうは三千万の保険だから、今度は八千万で。もちろん受取人は秋乃だし、このマンションもローンは終わってるから、俺に何かあっても秋乃は困らないよ」
げ。この人の稼ぎで、預金もないのに二重に掛け金を払うのか。これは急がなきゃ……と秋乃は頭の中で目まぐるしく計算した。そしてグスンと可愛く涙を拭い微笑む。
「ごめんね。息子さんが大切なことは分かってたのに。何だか奥さんに負けた気がして悲しくなって……」
「そんなことあるはず無いだろ?亜美には悪かったと思ってるけど、もう愛情は無い。俺には君だけだ」
「ありがとう、孝史さん」
しっかりと抱き合いながら、秋乃は窓に映る自分の暗い目を見ていた。
5か月後。亜美は喪服のまま、孝史のマンションに入った。ここを出てまだ数か月だと言うのに、随分経ったように感じる。今日は預けてきた貴仁も、きっと戸惑うことだろう。
「今、お茶入れるから。座って」
亜美は素直にダイニングテーブルにつく。孝史が、亜美が好きな紅茶をいれてくれた。
「上手く行ったわね。それもこんなに早く」
亜美に褒められて、孝史は嬉しそうに言う。
「保険の掛け金が高いからって、秋乃は急ぎすぎたんだ。君の作戦通り。俺だけが飲む酒やコーヒーに、せっせと薬を混ぜてくれたよ。料理に混ぜられて食べさせられてるとも知らないで」
「で?彼女の遺産は大してないでしょうけど、保険金は?」
「一千万。俺に比べれば全然少ないから、疑われてもいない。これで店も守れる」
「じゃ、来月にはここに戻ろうかな。失意の元夫を支える感じで」
「ああ、待ってるよ」
紙切れ一枚で彼らの人生は変わった。被害者と、そして加害者に。
(完・1200字)
こんばんは。こちらに初めて参加させていただきます。
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