〔短編〕報い(後編)
(後編)麻森家の内乱2
無視され続けた巌さんは、荒れに荒れたらしい。妻や息子たちに罵詈雑言を浴びせ、何度も犬の姿で襲いかかろうとしたそうだが、彼の攻撃は空を切るばかり。触れることも出来ないのだから、当たり前だ。
そしてある日、息子たちは家の荷物を整理しながら、父親には目も向けずにこう言った。
「兄さん、親父が死んで良かったなあ」
「ああ、ほんまにな。あんな奴がいつまでも偉そうにおったら、俺らも母さんも変になりそうやったし」
灰色の犬は吠えた。
(何や、その言い草は!生意気にも程があるぞ!)
「昔から、自分さえ良かったらいい人やったしな」
「うん、俺らも母さんも、あの人から優しい言葉かけてもろたことも、無かったもんなあ。俺らだけや無い、じいちゃんやばあちゃんにもな」
ここで兄が怒りを露わにした。チッと舌打ちをすると、表情を一変させる。思わず灰色の犬もビクッとするほどだった。
「柴犬になって帰ってきたじいちゃんにも、雀になって帰ってきたばあちゃんにも、あの男は言いたい放題やった。あいつに怒鳴られて震えてる母さんや俺らを、一生懸命かばってくれただけやのに」
弟も頷く。
「じいちゃんもばあちゃんも、いっつも謝ってばっかりやったな。自分らの育て方が悪かったんや、って。けど、ちゃう。あれは性根の問題やろ」
「ああ、絶対そうや。あいつ、じいちゃんとばあちゃんに言うてたよな。『お前らはもう死んだんやから、要らんこと言うな』って。出来の悪い息子を心配して来てくれた親に、ようもあんなことが言えたもんや」
灰色の犬はワナワナ震え、大声で吠えようとした。
(お、お前ら、黙って聞いとったら好きなこと言いやがって!俺がおらんかったら、会社も家も今ごろーー)
「兄さん。あいつがおらんようになって、家も会社も空気変わったよなあ」
弟がその声を遮るように、明るい声で言う。兄も応えて、
「ああ、全然ちゃう。みんな、新しい意見やら提案やら、いろいろ出してくれるし。カビ臭い空気が澄んできた感じやな」
「会社も規模を小さあにするんやろ」
「ああ、予定通りな。今まで不義理してきた所にお詫びに回らなあかんし。母さんの方のじいちゃんらにも、これでゆっくり謝りに行ける」
灰色の犬は目を見開いて、ますます吠え立てる。
(何だと……?お、お前ら、気は確かか!規模を縮小だと?そんなこと一言も聞いてないぞ!俺がどんだけ苦労して)
「やっとこの村も出て行けるしな」
ここで犬はピタリと吠えるのを止めた。この村を、出ていく?どういうことだ?
兄弟は初めてくるりと灰色の犬に向き直ると、無表情で言った。
「どんなに姿が変わっても、周りの人間を踏みつけることしか出来へん人でなしには、心底うんざりなんや。反吐が出る。あんたの顔も声も、見たくも聞きたくも無い」
「もう1回会いたいとか、一瞬も考えへんかった。せっかく清々してたのに、まだ自分は偉い、尊敬されるべき人間やとか思てるの、痛すぎて引くな」
硬直している灰色の犬に、兄がクスリと笑って言う。
「ま、二度と会いたく無かったら、会えん場所に行ったらいいだけ。着いて来れん奴は、ほって行ったらええ」
弟も笑った。
「そうやな。これでやっと、俺らは自由や。コロッと死んでくれてありがとう、やな」
灰色の犬は兄弟に向かって唸り声を上げ、跳びかかった。が、噛むことや引っ掻くことはおろか、触ることすら出来はしない。兄が冷たく言った。
「止めとき。あんた死んだんやから、要らんことせんでええ」
これが、息子たちからかけられた最後の言葉だったらしい。
「うわあ……それは、また……」
言葉を失う翔に、父が静かに言った。
「けどな、これは自業自得やろ。俺らも、何回も巌さんには忠告した。けど、あの人は全部鼻で笑っただけやったし、挙げ句に優しい両親にまで暴言吐いてた。救いようのない人やったから、しゃあない」
母も言う。
「とにかく、普通でない人だったな。奧さんにも逃げるように言うたことがあったけど、あの人はどこまでも追いかけてくるから無駄やって。けど皮肉やな。この村の人間は、死んでしもたらどこにも行けんようになるんやから。これで晴れて自由の身や。言えるもんなら、奧さんに直接おめでとうって言うてあげたいわ」
両親のアッサリした言葉に、翔も思わず笑ってしまった。そう、これは当然の報いなのだろう。巌さん自身が招いた結末だったのだ。
その後、麻森家は村外へ引っ越していった。灰色の犬は、誰もいなくなった屋敷の周りを当てもなくうろついていたが、やがて半年ほど経つといなくなった。これを成仏と言って良いのか、翔には分からない。
(完)