西村亨

小説を書いています。第39回太宰治賞受賞。筑摩書房『自分以外全員他人』『孤独への道は愛で敷き詰められている』

西村亨

小説を書いています。第39回太宰治賞受賞。筑摩書房『自分以外全員他人』『孤独への道は愛で敷き詰められている』

最近の記事

2024 ちくま9月号「この世の恥は書き捨て」

「恥の多い生涯を送って来ました」  太宰治のその言葉に共感を覚えてから二十九年、私は未だに恥の多い人生を送っている。こんなはずではなかった。恥の多い生涯は、二十二歳で幕を閉じる予定だった。私は1999年7の月に地球は滅亡するという、例のノストラダムスの予言を完全に信じきっていた。  1999年7月末日。私はその日、友達の運転するおしぼり配達のトラックの助手席でその時を待っていた。たまにこっそり乗せてもらいドライブを楽しむことがあった。カーラジオからは郷ひろみの『ゴールドフィン

    • 南日本新聞コラム南点第13回「私も花になりたい」

       梅雨なので、あまり観葉植物の日光浴ができずにいる。心なしか元気がなさそうで悲しい。    その植物は、去年の12月に知り合いから貰った物だ。本屋でたまたま私の本を見つけたと連絡をくれ、20年ぶりに会った際にくれたのだった。 「悪い気を清めてくれるから」  私の小説や取材記事を読んだという彼は、私のメンタルを心配してくれていた。貰った時は正直、「いらないのに」と思ったものの、コンパクトな物だったので窓辺の棚の上に置いていた。それまで観葉植物に何の興味もなかったのに、家にあると

      • 南日本新聞コラム南点第12回「いのちのろうそく」

         健康のため、一時期公園のラジオ体操に参加していた。家から徒歩30分の場所にあるその公園は広く、人との距離が十二分に取れるので、知らない人から挨拶される心配もなくとてもリラックスした時間を過ごす事ができた。行き帰りにスマホで立川志の輔の落語を聴くのも楽しかった。三十半ばの頃に初めて聴いて以来、ネットに上がっている氏の落語はほとんど聴いた。  「みどりの窓口」などの新作をよく聴くが、古典もアレンジが加えられ笑いの要素がふんだんに盛り込まれているから「まんじゅうこわい」などの有名

        • 南日本新聞コラム南点第11回「テレビが中心だった頃」

           10年前から、ほぼテレビを見なくなった。ちょうどその頃初めてスマホを買い、そのオマケにポータブルテレビをもらったので一応今でもそれは持っているが、東京の高円寺という、縁もゆかりもない街に越して来てから日々の寂しさにさいなまれ、テレビの中で人々が楽しそうにしている様子を見るのが辛くていつの間にかテレビをつける事自体なくなっていった。  慣れると、それは静かで心地良い生活だった。脳もクリアになり、広い視野で物事が見れるようになった。自分の事もより客観的に見れるようになったもの

          南日本新聞コラム南点第10回「踏み出せ青春」

           東京にも春がやってきた。鹿児島で暮らしていた頃は2月まで耐えれば3月からは暖かく過ごせていたように記憶しているが、東京の3月はまだ寒い。4月も何だかんだ寒い日があるし、5月になってようやく全体的に暖かくなる。  昔は春が好きじゃなかった。キャンディーズの歌に『春一番』という曲があるが、歌詞のあの前向きな言葉の羅列にクラクラめまいするほどだった。    四季の中では秋が一番好きだった。乾いた風の中、ひらひらと舞い散る枯れ葉の切なさに、そこはかとない共感を覚えていた。子供ながら

          南日本新聞コラム南点第10回「踏み出せ青春」

          南日本新聞コラム南点第9回「本当のカッコよさとは」

          「いじめ、カッコ悪い」  というCMが昔あった。鹿児島出身のスポーツジャーナリスト、前園真聖氏が出演していたCMだ。  いじめがカッコ悪い(というかダメな事である)のは当然として、ではカッコいいとはどういう状態を指すのだろうか。  たとえばスポーツ選手が試合中超絶プレーをキメた時、カッコいいと思う。けれどその人が記者会見の席で、高級スーツや腕時計を身につけ、記者の質問にカッコつけて答えていたとしたら、カッコ悪いと思う。  一般的な社会でも、過剰なほどオシャレにこだわり、仕草

          南日本新聞コラム南点第9回「本当のカッコよさとは」

          南日本新聞コラム南点第8回「命を糧とし命を繋ぐ」

           子供の頃、祖母の家でご飯を食べる時、「いただきます」と手を合わせると、祖母はいつも、「はいおあがり(召しあがれ)」と言った。それは、祖母がご飯を作ってくれた時だけでなく、母や、自分でラーメンを作った時もそうだった。自分の作ったご飯に対し「いただきます」と言ったのに、ただテレビを観ていただけの祖母から「はいおあがり」と言われると、なんとなく釈然としない気持ちになった。  子供の頃は「いただきます」というのは、作ってくれた人に対して言うものだと思っていた。作ってくれた人の労力

          南日本新聞コラム南点第8回「命を糧とし命を繋ぐ」

          南日本新聞コラム南点第7回「新生活」

           初めての1人暮らしは、下荒田3丁目、路面電車の、騎射場駅のすぐ近くだった。今でこそ「路面電車」なんて言っているけれど、当時は「チンチン電車」と呼んでいた。あの頃は上品なもの、都会的なものに対する抵抗感があったから「路面電車」という言葉を使うのが恥ずかしかった(本来は逆なはずなのに)。もちろんチンチン電車のチンチンは、人や車に対する警笛音がその由来と言われている。  ごくたまに、天文館に行く時などに乗る事があった。まだ春先なのに、夏のように暑い日だったと記憶している。満員で

          南日本新聞コラム南点第7回「新生活」

          南日本新聞コラム南点第6回「都会へ旅立つ君へ」

           東京の高円寺という街で暮らすようになって9年が経とうとしている。引っ越した当初は友達や知り合いもなく寂しかった。ある日近所に個人経営らしき鹿児島料理の専門店を見つけた私は、郷愁に導かれるようにして、数日後、勇気を出してその店に入ってみた。  前もってネットでその店のメニューを調べたところ、鰹の腹皮(はらがわ)があったので久しぶりに食べたいと思った。ところが店内のメニュー表にはどこにもそれが書かれていない。すると同年配くらいの店主が尋ねてきた。「何か気になるメニューとかあり

          南日本新聞コラム南点第6回「都会へ旅立つ君へ」

          南日本新聞コラム南点第5回「食い違い」

           ハマグリは、対となる殻とだけぴったり合うという。その様子から何かが噛み合わない状態の事を、ハマグリの逆、という意味で「グリハマ」と言うそうだ。  鹿児島を離れて30年になる。上京したての頃は、自分の言葉が正確に相手に伝わらず、変な感じになる事があった。たとえば物を仕舞う事を、鹿児島では「なおす」と言う。けれど関東では「かたす」と言う。職場で先輩に、「これなおしてきます」と言ったところ、「壊れてた?」と訊かれたので、「いや、壊れてないと思いますけど」と答えて、互いに「?」と

          南日本新聞コラム南点第5回「食い違い」

          南日本新聞コラム南点第4回「考える生きもの」

           電車内での通話は「迷惑行為」として禁止されている。乗客同士の会話は許されているのに、なぜ通話はダメなのか、と疑問を抱いている人がいた。「会話も通話もうるさいのは同じなのに、なんで通話だけ? 医療機器への影響? ならネットもダメなんじゃ?」と彼は首を傾げていた。  私はその人とは違い、その事に疑問を抱く事はなかった。最近は滅多に電車に乗らないし、車内で電話をかけている人を見かける事もないから、今現在その行為を見てどう感じるかはわからないが、昔はその行為にはっきりとした迷惑を

          南日本新聞コラム南点第4回「考える生きもの」

          南日本新聞コラム南点第3回「諦める、の本当の意味」

           諦める、という言葉がある。暗い印象を持たれがちな言葉だが、元々は仏教用語で、正確には「明らかに観る」という意味を持つ。 「諦」とは真理を意味する言葉で、本来は断念ではなく、明らかに観る事、現実をありのまま観察する事を意味している。  そう、インターネットに書いてあった。その意味は前から知ってはいたが、人に説明する時は間違った情報を伝えてしまわないよう、念のためネットで調べる事にしている。ネットが普及していなかった頃は、間違った情報を悪気なく自覚なく人に伝えてしまっていた

          南日本新聞コラム南点第3回「諦める、の本当の意味」

          2023.12ちくま12月号「みっともなさの、その先に」

           死のうと思っていた。太宰の短編、『葉』の冒頭みたいに。去年の晩夏、来年の春になったら、そうしようと思っていた。  それまで何をして過ごそうか。考えてみたけれど、何も思い浮かばなかった。生きるために色々なことを、諦めながら、捨てながら生きて来た。そうしなければ、とても生きては来れなかった。  子供の頃から死にたかった。その気持ちに初めて寄り添ってくれたのが『人間失格』だった。十八の頃、小説を読んだのはそれが初めてで、以来様々な小説に支えられ、救われて生きて来た。けれどそんな大

          2023.12ちくま12月号「みっともなさの、その先に」

          南日本新聞コラム南点第2回「新聞勤労少年時代」

           高校生の頃、一時期新聞配達をしていた。女手ひとつの貧しい家計を助けるため、という殊勝な思いからではなく、友達に誘われたからだった。誘われたというより、面接について来てほしいと言われ、ついて行ったら店主に君もどうかと勧誘された、というのが正確なところだった。友達はその頃流行っていた、某有名家電メーカーのテレビを欲しがっていた。テレビとビデオが合体したそれは、単に機能性というより、合体、というコンセプトが、幼い頃から合体ロボの出てくる特撮やアニメを観て育った少年の心をくすぐった

          南日本新聞コラム南点第2回「新聞勤労少年時代」

          2023.8 広報みたか「太宰治文学散歩」

           三鷹の地を踏みしめるのはおよそ八年振り、ひょんなことから高円寺に越して来て間もない頃、太宰のお墓を訪れて以来のことだった。元々高円寺が好きで越して来たわけではなかった。それにはまさにひょんなことからとしか言いようのない理由があり、今ここでその「ひょん」について説明するには、文字数の関係上今回の紀行文の趣旨とズレてしまうので割愛するが、「ひょん」とはあるいは「運命」と言い換えてもいいのではないかと私は思う。文字数の関係上。  担当編集者のK女史と三鷹駅構内で落ち合い、改札を

          2023.8 広報みたか「太宰治文学散歩」

          2023.8 南日本新聞「太宰治賞受賞エッセイ」

           18の晩秋、私は人知れずヤクルトレディに憧れていた。与次郎にあるファミレスの面接を受けた帰りだった。それまで東京のレストランでウエイターをやっていたから今度こそ大丈夫だろうという私の目論見は無情にも外れ、面接官は何か不気味なものを見るように私との会話を早々に切り上げると、もし採用の場合は電話します、と、「もし」を強調するように言って面接を終えた。鹿児島市内に越して来て5つ目の面接だった。    その帰りに、私は見たのだった。夕暮れ時の街を颯爽と自転車で駆け抜けるヤクルトレデ

          2023.8 南日本新聞「太宰治賞受賞エッセイ」