受付嬢の晩餐
ここへ来る人は、当然ながら顔色がみんな悪い。
「こんにちは、書類はお持ちいただけましたでしょうか」
やってきた女性に声をかけると、鞄の中から几帳面にファイルに入れられた書類を差し出される。
内容に不備はないか、確認する。
「ありがとうございました。こちらの番号札を持って、そちらにおかけください」
小さな声で「ありがとうございます」と会釈と共に礼を言った。
私は考える。この人は、最後の晩餐を何にしたのだろうかと。
私は周りには、『公務員の事務』と職業を伝えている。
いいな、どんな仕事するのと尋ねれたら、「つまらないよ。ただの書類の整理だよ」と言う。
しかし実際は、安楽死処理場の受付だ。
近年、自殺する人があまりにも増え、政府は対策として、希望自殺者に安楽死する施設を設立することにした。
山の中、崖、列車、マンションの屋上からその他もろもろ、あちこちで死ぬ人々のせいで、捜索の費用や列車の遅延、片付けの手間などの苦情が高まった。犯罪に巻き込まれるケースもある。
そこで『迷惑をかけない安心な自殺の方法』として政府が処理場を作り、専門の弁護士やカウンセラーが話を聞き、自殺のほかに方法は無いのか審査をする。
金銭問題などにはそちらの弁護士に回し、うつ病などなら病院に回すこともある。自殺を防ぐ方法の一つでもあるのだ。
ただ、死ぬという意思が固い人もいる。
そういうひとはとても真面目で、「他人に迷惑をかけたくない」という気持ちが強い。だから施設にやってくるのだ。
死への事務処理を進めるごとに、皮肉にも死への気持ちが軽減されて、死ぬことをやめる人もいる。ドタキャンで処理日に来ない人もいる。
そうしたら困るどころか、施設の人は「よかったね」と言い合ったりするのだが、やはり後日違う所で死んでいたりすることもある。
死というものは、薬でコントロールしていても、ときに衝動的に襲ってくるものらしい。
今日も誰も来なければいいとは思うが、死ぬ人は今日も律義にやってくる。
年代もさまざま。10代や20代、小学生なんてときもあった。老人も多く、孤独死を恐れたり、子どもに迷惑をかけたくないという人。それを止めるどころか子どもが「親の面倒をみたくない」と説得して連れてくるケースもあるようだ。もちろん可能な限り行政が指導を入れるようだが、担当によっては行き届かないケースもある。
「〇〇さんこちらへどうぞ」
白衣を着た職員が、『診察室』に呼び出す。
死ぬ人は、受付を済ませると、意思の最終確認をされる。
そして、身に着けているものを外し(強い希望をもっているものは除外される)、病衣のような衣服に着替える。着替えると『処置室』に連れていかれ、注射をされて、そこで意識は途絶える。
以前、設立当初であまりにも希望者が多かったことがあった。
カウンセリングもままならず、複数の人間が一度に処置されたこともあったそうだ。
今は注射だが、ガスが使われることもあった。
同意をとってから女性三人が小部屋に入り、ガスで処置後に職員が中に入ると、三人はきっちりと手を握り合い、なかなか手を外すことができなかったそうだ。
仕事として、処置の様子をモニターで見ていた職員がいた。
三人は何か小声で話し、少し笑いあっていた。
そんな様子を見ていたら、このまま気持ちが変わって、死ぬのを止める方向に行けるのではないかと思ったそうだ。
だが、いろいろな人がどんなに引き戻そうとしても、駄目だった人たちだ。
少し震えながら固く手を握り合い、逝ってしまった。
だから、個別に注射の今のほうが、仕事しやすいと言っていた。
少なくとも職員は、人を死なせたくないという気持ちを持っている。
もちろん赤の他人のほうが、そういう気持ちを持ちやすいのかもしれないが。
今はそんなに、自殺処理の数は多くない。
たとえば二時に処理する場合、受付して同意、実行するまで三十分ほど。
次の人を入れるのは、それから間をあけて、四時といったところだ。間が空くのは、バタバタとした車の出入りがあり、あまりそれを当人に見られたくないからだ。
実は受付の前にはすでに車が待機していて、注射後にすぐに『患者』は急いで運び出される。多くは臓器移植に使われるのだ。
この安楽死は無料だが、検体や臓器提供が義務付けられている。もちろん臓器などに影響のない薬物が使用されるそうだ。
無一文の人もいるが、身寄り無く財産を持っている場合、寄付になったりするので、儲かっているほどらしい。
私も、人の死でごはんを食べている一人だ。
どこに配属されるかは自分では選べないので、この仕事に就いたときは本当にショックで、それこそあまり食事は摂れなかった。
しかしただ死という海に向かって歩く人にできることは、無いのだと知った。
人口は減りつつある。
人を死に追いやるほどの圧迫を与える人々、差別や格差。人がただ生きているだけでも「迷惑だ」と冷淡に扱う人々は増えたと思う。つめたい空気をひしひしと感じる。
形は違えども、生きていても死を選んでも、わたしたちは静かに滅びという海に向かって歩いているのかもしれない。
そして仕事が終わり、サバの味噌煮定食を食べながら思う。
もし私に機会が与えられるなら。
私の最後の晩餐は、何にしようかと。
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