すべるこども
雪まつりの賑わいも、どこか他人事ながらとりあえず今年も通り過ぎておくことにする。そんな地元民は多いのではないだろうか。
仕事帰り、地下街から階段を上り、テレビ塔の下へ出てきた。
華やかなイルミネーションを見下ろし、降りてみるとスケート場ができていた。
これは昔からあるものではない。いいところ数年しか歴史はないだろう。
覗き込んでみると、子供や観光客、カップルなどがぎこちなくスケートを楽しんでいた。たぶん生まれて初めて滑る人もいるだろう。
フェンスから楽し気なリンク内を見ていると、ふと思った。
ここから子供を楽し気に眺めていたら、人にはわたしが子を持つ親のように見えるかしら。
子供を持つことは、私にとってはとうに焼け焦げた夢だった。
夢想にかられ、中にいる子供を数人眺めてみる。氷上の子どもたちはフェンスの外の『本物』の親に手を振ったり、逆に『本物』の親は懸命にスマホをかまえて我が子を記録に残そうとしていた。
その中で一人、不自然な子どもがいた。
彼はフェンスを一瞥もせずに、広くもない臨時のスケート場をただもくもくと滑り回っていた。
この近くの、一人で来た子供かしら。
確か、ここはスケート靴さえ持ってくれば、無料で滑ることができると聞いたことがある。
ふと彼と目が合った。
何歳かは分からない。小学生ぐらいだろうか。
彼は驚いたように目を見開き、そしてすぐに目をそらしてまた滑り始めた。
私は悟ってしまった。
ああ、たぶん。
あの子はこの世の人ではないんだな。
たまに雑踏にまぎれ、生活にまぎれ、ふいにそういう人を見かけることは、私にはたまにあることだった。
二日後、気になって見に行くと、彼はまた滑っていた。会社帰りなのでもうあたりは真っ暗だったが、彼はいつもいるのだろうか。
それからは毎日、ほんの少しの時間だったが、彼を見かけてから帰るようになった。
そして雪まつり最後の日。
また彼と、目が合った。
私は反射的に、にこりと笑い、手袋に包まれた手を振った。
突然、涙が出そうになるくらい、幸せな気持ちになった。
目がじわりと熱くなった。
すぐに目線は離れ、彼はまたくるりと滑り出した。
そして一周し、なんとフェンスの私のところまで滑ってきた。
「おばちゃん」
「はい」
妙に自覚的だった。
ああ、わたしは間違いなく幽霊の子どもと話をしている。
もしかしたら人からは、すこし気のふれたオバサンが、何もないところに話しているように見えるのだろうか。
それとも、もしかしたら人からは親子に見えているのだろうか。
「おばちゃん、ぼくをおばちゃんのうちの子どもにしてくれる」
彼は唐突に、でもはっきりと言った。
「いいわよ」
私ははっきりと言った。
ぼわっと、夢のような気持ちだった。
「ここでまってて」
彼はそういうとまた滑りだし、貸し靴のほうへ行った。
私は不安にかられながら待ち続けたが、彼はちゃんと私のところへやってきた。
彼の履いていたさっきのスケート靴とは違い、夏靴だった。
よく見ると彼は、長袖だが秋のような服装だった。とてもこの今の寒さをしのげるような服ではない。
夏靴も雪道を滑らずに歩けるか心配だ。
私が少しとまどいながら「手をつないでいい?」というと、彼はサッと小さな手を差し出してくれた。
手を握ると、冷たくも暖かくもないが、確かな感触があった。
「おばちゃんの家、こっち。一緒にいこう。歩いて二十分ぐらいかな」
「川を渡るの?」
「わたるよ」
起きたまま、夢を見ているのではないかと思う。それでもよかった。
私の家は小さなアパートで、二部屋しかなかった。
カギを開けて中に入ると、彼はきょろきょろと見回した。
「すぐストーブつけるからね。なにか食べる?」
彼は無言でこくりと頷いたので、冷蔵庫を開けたが作り置きの豚汁ぐらいしかなかった。
温めて、ネギをきざんで入れる。
ふと彼が消えているかもと思い、リビングを振り返ってみたが、ちゃんと座っていた。
ああ、こどもがわたしの家にいるなんて、信じられない。
冷凍ごはんをチンして、せめて形を整える。ひじきと大豆の煮つけを小鉢に入れる。がっかりするほど茶色く、華のない食事だった。
子ども用の食器なんてなかったが、大丈夫かしら、多すぎないかしらと思ったが、彼はぺろりと平らげた。
幽霊もごはんを食べるんだと感心し、食べてくれたことに安心した。
ハンバーグとか、オムライスとかじゃないと食べないと言ったら、どうしようと思ったのだ。
お茶を淹れて、おかきや煎餅の入った器を出す。
ほんとうに、どうしてうちにはケーキとかクッキーがないのかと思うが、急だから仕方ない。
このまま明日があるなら、なんでも好きなものを食べさせてあげたい。
一息つき、間がもたないような気がしたので、話がしたくなった。
「お名前、聞いてもいい?」
彼は小声で何か言いかけたが、「好きに呼んでくれていい」と言った。
「気を使ってくれた?」
「名前、忘れてしまった」
「長いこと歩いてきたの?」
「ん」
なんだか、彼は疲れているようにも見えた。
「眠そうだね。そろそろ寝ようか」
「ん」
部屋を片付けて布団を敷くが、当然一組しかない。
「一緒でかまわない?」
「ん」
電気あんかが一つだけあるので、それに二人で足を重ねる。
眠ってしまったら、彼が消えてしまいそうに思えて、なかなか寝付けなかった。
「おばちゃん」
「なあに」
彼は言いづらそうに間をおいて、言った。
「おばちゃん、ぼく、幽霊なんだ」
突然カミングアウトされた。
「うん」
「知ってたの?」
「まあ、なんとなく」
「だから、ぼく……、こどもにしてくれって言ったけど、おばちゃんを、とりついて、殺してしまうのかもしれないと、いま思って」
「あはは!」
私はとても愉快な気持ちだった。
「かまわないよ。そしたら、手をつないで一緒にあの世に行こうよ」
「ほんとに? 僕のせいで死んじゃうかもしれないのに?」
「うん。君には分からないかもしれないけど、このままずっと長生きして過ごすより、とても楽しくて愉快なことだと私は思う」
だから気にしないで、と私は布団の中の彼の手を探して、握りしめた。
「あのね、ぼく、あるいてあるいて、もう自分のことも、お母さんのことも、きょうだいのことも、なにもかもわからなくなって、ひとりで……、でもおばちゃんが、気づいてくれたから」
「うん」
「おばちゃん、お話してくれて、手を握ってくれたから……」
「うん」
彼はその後も、ぽつぽつと言ったが、私はただ相槌を返した。
そして、どんどん声は小さくなっていった。眠るのかなと思った。私は小さな声でお願いを一つした。
「あのね、おばちゃんのこと、いちどでいいの。うそでもいいの。おかあさんって言ってくれたら、うれしいな……」
やや間ののち、「おかあさん」と小さな声が返ってきた。
私は涙を流した。
枕に涙は染みていった。握ってない腕のほうで、私は塩からい涙をぬぐった。
体はふるえ、喜びなのか悲しみなのか分からない衝動が、全身をゆすぶった。
昔、大好きだった彼と結婚した。
子供は何人欲しい、どんな家に住みたいと二人で長い時間話し合った。
すぐに妊娠して、周りにも報告して、服やおむつやベビーベッド、たくさん用意して。
流産だった。
それがもとで、子どものできにくい体になった。
強く子どもを望んでいたわたしたちは、ショックを受けた。そして夫は「子供がほしいから、違う人と一緒になりたい」と離婚を要求した。
いいよね男の人は。相手をとりかえるだけで自分の子供ができて。
わたしは、もうじぶんのこどもができないのに。
夢は膨らんで、私たちを押しつぶし、私は夢を燃やしたのに、焼け焦げたそれをずっと手放すことができなかった。
私は泣き疲れ、意識を手放した。
目が覚めると、誰もいなかった。
夢だったのだろうか。
目覚ましのベルが鳴る。
玄関に行っても、小さな靴はない。
布団に、自分以外の誰かがいた形跡もない。
食事はひとりぶん無くなっていたが、私は昨日胸がいっぱいで食べなかったつもりだったが、ほんとうは自分で食べてしまったのかもしれない。
「どこに行ったの……」
私はおぼつかない頭と足取りで、着替えて外に出た。
身を切るような寒さ。マイナス五度ぐらいだろうか。昨日は寒いどころか、温かい気持ちで帰って来たのに。
「……なまえを」
名前を呼んであげればよかった。
生まれてくるはずの子供に、考えていた名前がたくさんあった。
私は天を見上げた。
ああ。
ああ。これもいつものことだ。
幸せなようで、つらくかなしいゆめをみたのだ。
顔を洗って、会社に行かなくちゃ。どんなに辛くても、いのちが夢に押しつぶされないように。
そうだ、もう終わったことなのだ。いつものようにすべてに、わたしは、置いていかれたのだから。
私は自分に言い聞かせつづけた。心をあやすように。
夜、公園に寄ってみると雪像も何もかも、ブルドーザーで壊されていた。
次の年も、その次の年も雪まつりのスケートリンクを覗いてみたが、もう二度と彼を見つけることはできなかった。
私は、雪まつりを見るのをやめた。
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