エナジードリンクコンテンツ
コンテンツがユーザーありきになっている。
コンテンツを公開する側がユーザーに頼り過ぎている。コメントありき、アクセス数ありきで
以下に触ってもらえるか、踏んでもらえるかが焦点となり過ぎている。タイトルで選んでもらえるかヘッダーで引きつけられるかが勝負で、中味は後付けで済ませる「意味の貧困層」が蔓延している。
大元は中身に自信が持てなくなった大企業がCM、株主、スポンサーありきの展開をしながらそれらをひた隠しにしてあたかも「お客様目線」でお届けしていた失態にある。彼らにとっての「お客様」とはお金をかけてくださるメンバーであり、次の食いぶちを繋いでくれる「お弁当箱」を用意している彼らのことだ。
「なにを言うかではなく、なにを言い続けるか」
中味はさておき「言い続ける」ことでユーザーは考える力を失い、ユーザーの飽きが来ないようにタイトルを乱発するだけでコンテンツ提供者にも疲弊感が漂う。ぼくらは情報に飽き飽きしているし、提供する側も枯渇していく。これではいつまでたっても「持続可能な社会」など叶うはずもない。
コンテンツを作る側が自信を失い、ユーザーに媚びるシステム自体、少しおかしいのではないか。ユーザーだってバカじゃないんだ。少しくらいは学びにしたいし、笑いたいし楽もしたい。いつまでも「共感」ばかり得られたからといって、個人がほんとに満たしたい「飢え」を満たすことにはならない。
おそらくすでに気がついた企業はもうとっくにそうしていると思うが、もう個人レベルでは解消できないレベルに来てしまった。そうなればかつての過去がそうであったように「みんなで」考える時代になりつつあるだろうと思う。
「みんなが一様に同じことを言う」のでなく、「それぞれの価値観・各々の経験・学び」などを共有しながら「書き手」と「読み手」がコンテンツを広め合うシステムが「持続可能性」のある将来に繋がる。
それには「まずユーザーありき」を一旦離れて「中味に充実したお弁当」を用意し、少しでも美味しいと感じてくれた人が広め、誰でも再現性のあるお弁当に変えていける柔軟性を持たせていかなければ、コンテンツというものは育たない。
何にしても今の情報力は受けとれやすい反面、瞬時消化されるエナジードリンクだ。ひとときのパワーは出るかも知れないが、すぐにスタミナ切れを起こす。こんなのが正しいわけがない。