子どもの問題のように見えて、実は親の問題だったこと
あくまでも、私・マダム♡千壽の体験として・・・
誰の参考になるかどうかも分からないけれど・・・
かれこれ30年前の、大きな転換期の出来事
それを思い出したので書いておくことにするわね。
子どもの問題は潜在的な家庭の問題の現れ
実は子どもが結構長い間、夜尿症だったのね。
しっかりした子だけど、それが仇になったのかしら。
いろいろ悩んだし、対処法を考えたけど、どうしようもなかったのよ。
最終的には、「いつかは治るから、対策だけして見守ろう。」
そう決めたのね。
それがある時、ピタリと治ったの。
偶然というにはあまりにも出来すぎていて・・・
やはり夫婦問題の根っこの部分って、蓋をしていても、見ないふりをしていても、問題化していなくても、潜在的にはあるものなのよ。
だから、それが「子どもが感じる不安」へと形を変えていたのかも知れないのね。
そう思った出来事のことを思い出したの。
破綻していた夫婦関係に未練があったのは私
夫婦関係は、お互いが努力している間は何とかなるんじゃないかしら。
でもお互いた努力しようとしている間だけよね。
どちらかが放棄してしまったら、もうどうしようもないわ。
ただ、それは後から気が付くことなのよ。
まだ婚姻関係がある間は、まだ何とかしたいと思うのよね。
未練っていうのかしら。
でも当たり前じゃない。
子どもが何人もいてたら、じゃあ終わりにしましょうなんて簡単に言えるわけなかったもの。
だから私は、現実を直視しようとしていなかったの。
とうに破綻しているという現実をね。
相手はとっくに家を出て好き勝手やっていたのにね。
震災がきっかけで現実を直視する
だけど人生何が起こるか分からないものよね。
震災なんて、人生に降りかかるなんて思ってもみなかった。
私は子どもたちを真っ先に守ったし、普通に生活できることの有り難さを嫌というほど思い知ったわ。
水道から水が出る
買物に行けば商品がある
住める家がある
もうどれもが大事で有り難いことだったわ。
だからどんな人でも、ロクでもない人でも
命があるだけ、生きているだけでいいって思ったの。
心の底から本気でね。
ところが相手にとっては私たちはそういう存在ではなかった。
この間にあるギャップを思い知ったのよ。
子どもを守るのは私一人しかいない
このギャップを知って、私ももう目が覚めたのよ。
開き直って、この現実を全て受け入れることにしたわ。
子どものことを真剣に考える親は、もうこの世には私しかいないんだって!
それから、ちゃんと現実を見ようと決心すると・・・
既成事実が次々分かってきて、やっぱりなとなったわけ。
今更ショックではなかったけど・・・
分かりきっていたけれど、自分が見ようとしていなかっただけなの。
何を幻想を見ていたんだろうと思ったわよ。
そこから現実のことをしっかり考えることにしたわ。
そしてあるタイミングで子どもたちにも離婚のことをはっきり伝えたのね。
父親は私たちともう一緒に住むことはできない。
その事実だけを幼稚園や小学生の子どもたちに分かるように伝えたわ。
そしてその晩だけは、一緒に泣いたのよ。
今後は全て私が責任を負う覚悟をする
そこからの子育ては全て私が責任を負う覚悟ができたわ。
いるかいないか分からないような相手と、どうなるか分からないような未来を待つのではなくて・・・
自分で全部決めて、自分が選んだ道を行く!
自分がこの船の舵取りをするの。
自分で航路を決めて予定を決めて、そこへ向かう準備も進めて、行きたい未来を決めていけるのよ。
それまではそれが怖いと思っていたけれど・・・
自分でやると覚悟を決めると、不思議と訳のわからない不安は無くなっていたわ。
案外、自分でコントロールできない、先の見えない未来を抱えている不安定な状態より、ずっと楽になったのよ。
生活基盤の基礎(根っこ)の部分の安定が大事
覚悟を決めて子どもたちにも話した訳だけど・・・
そこからピタリと子どもの夜尿症は治ったのよね。
子どもは私の不安や、家庭の不安定さを、しっかり感じていたのかも知れないわね。
いや、やはり感じていたんだと思うわ。
私が言葉にできない不安を、きっと間近にいて肌で感じていたのよね。
その時に子どもたちにも、申し訳ないことをしてきたと思ったわね。
私がさっさと自分で舵を取ると覚悟を決めたらよかった。
もっと現実をしっかり見て受け入れて対処するべきだった。
ただそうは言っても、全ての物事にはタイミングがあるのよね。
私はこのタイミングで良かったんだと思ったわ。
もう一人の子どもの驚くべき変化
そして頃合いを同じくして、もう一人の子どもも変化したのよね。
それまでボス的な友達(友達ではないわね)の言いなりだったの。
周りの大人たちからも気をつけたほうがいいと助言はいただいていたんだけど・・・
親がどこまで介入するかというのは難しいのよね。
それがある時、自分の意見をしっかり相手に伝えたのね。
嫌なものは嫌、間違っているものは間違っていると・・・
喧嘩になったけど、負けてなかったから相手を泣かせてしまったの。
もちろん我が子も泣いて帰ってきたわ。
当然相手の親から慌てて電話がかかってきた。
でも子どもが毅然と意見を言ったのだから、私も同じ態度で対応した。
そこから子どもは人が変わったのかと思うほど、自分の意見をしっかり言う子になったのよ。
子どもの問題のようで実は親の問題
子どもの問題のように見えて、実は親の問題であることって多いんじゃないかしら。
もちろん全てがそうであるとは思わないけれど・・・
性格や問題行動、一見その子の問題のように見えることでも、実は親の問題が反映されていることって多いのよね。
全然関係ないように見えて、根っこがつながっていたりするのね。
(全部そうとは言わないけれど)
ただその一件があってから、流石にこの場合は親の問題があったのかーって私は反省したのよね。
そこから、子どもの問題がある時は、何かしら自分の問題があるのかも知れない・・・と捉えるようになったのね。
大きな根っこになれる肝っ玉母さんでいよう
肝っ玉母さんっていう言葉が昭和の時代にはあったわよね。
でも気持ちはそれなのね。
肝が据わっている
腹を決める
全部受け入れる覚悟を決める
そうやって家庭の基礎(根っこ)をしっかり張れる、肝っ玉母さんでありたいと思うようになったわ。
例え片親であっても、私が揺るがなかったらいいんだもの。
それに二人でいた頃より、私自身とっても自由になれたのよね。
全部自分で決めて、自分で動かして、自分で舵取りしていけるこの自由さ。
ただ当たり前だけど、自由には責任も伴う。
その責任も負う覚悟を決めたら、あとはドンと来いだったわ。
なんだろう、昨日ふとそんなことを思い出したのよね。
30年くらい前のことを。
多分、「虎に翼」の梅子さんを見て、何か響くものがあったのかも知れないわね。