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伊丹想流劇塾 第6期生公演を観てきた!

厳しい寒さにおそれおののきながら、
伊丹想流劇塾第6期生公演 読み合わせ会ドラマ・リーディング『この胸のトキメキを』を観てきた。

観に行ったのは、知人に伊丹想流劇塾の入塾を勧められたからである。
公演はとても面白く、素敵な時間を過ごすことができた!


公演概要

伊丹想流劇塾とは、劇作家のための塾だそうだ。
本公演の作・出演は、11名の第6期生の方々。
1人1作品、10分程度の短編戯曲を書き上げられ、演じるのも第6期生たち。
私たち観客は、11作品の短編戯曲を観ることができた。
演出は岩崎正裕さんとサリngROCKさんだ。


1つ1つの短編戯曲

1.『辻の碑』作:町田康典

まるで小説のような読了感、ならぬ“観了感”だった。主人公の男性と“幽霊”が交流し、男性が夢に向かって背中を押されるという内容で、もの静かで温かい印象だった。
そうでありながらも、歴史上の人物が幽霊となって登場するという少しのホラー感があり、それがピリッと効いていた。

2.『Re:AMBITIOUS』作:湊游

1つ前の『辻の碑』と少し設定が似ていて、主人公の男性が道端で見知らぬ男性に声をかけられ、少し背中を押されるという内容。しかし『Re:AMBITIOUS』では、声をかけてくる男性は、ゴミを大量にもった現実に生きている男性である。
金網越しに新幹線を見つめる視線が、情景としてとても印象に残った。

3.『駄作会議』作:兼田一花

AIが書いた脚本を演じようとするものの、その脚本がメチャクチャな“駄作”で、頭を悩ませる劇団員たちのお話。
文章や脚本を書く仕事も、近いうちにAIの仕事になっちゃうんだろうなぁ」とやんわりとした危機感と好奇心を抱いていた私には、わくわくととても興味をそそられる作品だった。

4.『吾郎と小ゴロー』作:SHOGO

限界集落で一人暮らしをする老人と、彼がずっと飼ってきたクマと、老人の息子の物語。
人間の男性がクマ役を実際に演じているのが、とても印象的だった。人間の男性がクマ役を演じ、「オーイ」と発声することで、心が通じているのかまったく通じていないのかわからないクマのおそろしさ、そしてなんとなく通じているような気がする可愛らしさの両方を感じることができた。

5.『死神と、将来の噺』作:黒崎啓太

煌々と灯るロウソクと、舞台中央でイスに座る少女、そして少女の後ろに佇む“死神”が、景色としてとても印象に残った。
自分が死にそうになったとき、こういうふうに冥界で死神と話せるのなら、私も大切な人のことを考えたいなぁ、と思った。
それから、大切な人をこれまでに何度も亡くしているので、「こういうふうに、私の目には見えなくても、平気にしていてくれたら嬉しいなぁ」と思った。
見送った人たちが寂しくならないように、ちゃんと忘れないでいたいけど、でも見送った人たちが心配にならないように、あんまり泣かないでおこう、とも思った。
それと、みんな突然だったから、「ロウソクの炎は最後まで勢いを減らさず、パッと消える」というキーフレーズが腑に落ちて、心に残った。

6.『オレンジ色の記憶』作:もとお稜子

独り立ち前夜の18歳の少女と、彼女の家にある金木犀の樹の精霊のようなもののお話。
私は金木犀が好きだ。あの香りが好きだし、あの色にはたまらなく惹かれる。フジファブリックの『赤黄色の金木犀』を聞くとたまらなくなる。使っている香水は金木犀の香りだが、お金さえあればボディクリームもシャンプーもハンドクリームもなにもかも金木犀にしたい。金木犀にしたい!!
あの樹が金木犀の樹だ、とわかったとたん、「ああ…もう…」とたまらなくなった。

7.『大阪此花物語』作:HERO

此花区に住んでいた頃、幼少期の“私”の思い出を描いた物語。
平成初期生まれの私が観ると、「古き良き昭和の香り」が楽しめる趣深い作品だった。世代の異なる人が観ると、また違った趣になるのだろう。

8.『お鍋の中のプリンセス』作:こんのさき

“おでんアイドル”なるものを発足させたいマネージャーと、そのマネージャーが所属しているアイドル事務所の社長、おでんアイドル候補のアイドルが登場人物のドタバタ劇。
笑いどころのギャグセンスが愉快で、楽しかった。

9.『声のてざわり』作:ちはや

PTAの出し物として朗読をしましょう、ということで立候補した2人のお母様方の会話劇。
私も平家物語は好きだし、祇王の物語も好きなので、面白く共感しながら見ることができた。
声に“てざわり”を感じる、という感覚を私はもったことがないが、優しくて繊細な感性だなと思い、なんとも心地よかった。それから、雨音の表現方法が好きだった。

10.『未知に咲いた鳳仙花』作:大川朝也

植物をキーモチーフにするという点では『オレンジ色の記憶』と同じだが、私は金木犀には愛着があるものの鳳仙花には詳しくない。その点が、私にとって両者の観劇体験を分けた点である。
純文学のようなレトロなセリフ運びと、古い映画のような軽妙なテンポ感が心地よく、とても好きな世界観だった。
私は勇敢で強いじゃじゃ馬のような女性が好きなので、本作のヒロインは全編をとおして最も好きな人物だった。あの女性が冒険に出てくれてよかった。よかった!!

11.『月光』作:議長

「トキメキ」という公演テーマを見て、私ならなにを書くかと考えたとき、真っ先に思い浮かんだのは恋愛のことだった。真っ正直でストレートすぎるかもしれないが、「トキメキ」というキーワードで連想されるのは、私にとっては「恋のトキメキ」だった。
しかしフタをあけてみれば、恋物語はここまで1つもなかった。『死神と、将来の噺』と1つ前の『未知に咲いた鳳仙花』は恋愛感情が登場したが、「恋のトキメキ」がテーマだったとは思わない。
そんな中、企画全体の最後に据えられた『月光』というこの作品は、長い年月を経ても互いを思い合う“書生”と“お嬢さん”の恋物語だった。私としては「どストレートな恋物語」だと感じられ、そしてこのテーマに対する「真っ正直な回答」というふうに思えたので、この作品が最後にきているのは意図があるのかなぁ、いやないのかなぁ、なんて答えの出ない疑問を弄んでいる。
しかしキレイな恋物語で、キレイすぎる気もしたし、ひねくれた青臭い若者である私は最低なことに「結ばれなかったのに、じーさんばーさんになってもお互いを思い合う恋愛なんて有り得るかっ」などとも思ってしまうのだが、
しかしキレイな恋物語だった…。なんだかとても満足しているのである。


“観了”後に思うこと

観了後に私は、「演劇を観る意味」についてなんとなく思いを馳せた。
世の中にはいろいろな演劇作品がある。観終わったあとに血湧き肉躍るようなエネルギーあふれる作品もあれば、観終わったあとにじんわりと豊かさが広がっていくような味わい深い作品もある。
恥ずかしながら私は詳しくないのだけれど、演劇の手法や種類にもいろいろあるようである。

小説読了後のような心地よい“観了感”

今回の作品は、観終わったあと、なんとなく「小説を読み終わったあと」に似た感覚を覚えた。
私は小説を読むのが好きだ。それと同じような、私の“好きな”感覚だった。

観終わったあと、とても静かな落ち着いた気持ちになった。
それでいて、世界の見え方が少し変わった気がした。
美味しいお刺身をじっくりと噛んだあとのような、この多幸感が好きだ。
私の「好きなもの」について、また1つ知れてよかった。

わかりにくい表現を避け、「わかりやすさ」を追求した過去

私は自分の表現について「わかりにくいなぁ」と思い悩んだ過去がある。
それは演劇における演技や脚本の話ではなくて、もっと日常に根ざした悩みだった。
私は物心ついたときから、言葉に対して人一倍の執着心があり、本を読むのも空想をするのも好きだった。その影響で、おそらくは言葉遣いが少し“ヘン”だったのだと思う。
「私の言葉はなぜか人に伝わらない」というもどかしい思いをよくしていた。

伝わらないのはイヤなので、いつからか、「わかりやすい言葉」を心がけるようになった。
私には2つの言語がある。1つは「好きなように操り、遊ぶ、内面世界のための言葉」。もう1つは「他者に伝わりやすいように使う、社会生活のための言葉」。
どちらも私にとっては必要で、大切なものだ。

「わかりにくい」表現技法との出会い

しかし、「わりやすく伝える」ということを考え続けてきた私にとって、
あえて「わかりにくさを用意する」という表現技法は、出会ったときに戸惑ってしまうものなのである。

本日の公演はリーディング公演なので、演者は手元に脚本を持っている。
そして衣装替えや小道具もほとんどなく、舞台装置は基本的に6脚のイスのみ、音響や照明も大変シンプル。
だが私はそれが好きだった。
普段着のまま演じられる死神に頭の中で勝手に衣装をつけ、
少年の言葉を語る成人男性を勝手に少年の姿に変えた。
見えない金網を演者とともに見て、
真っ黒な素舞台に道端の風景を広げた。

私はあの黒い四角い箱の中で、演者とともに、想像の世界へ飛び立ったのだ。
その世界の中で私たちは自由で、なんだってつくり出すことができた。

「わかりにくい」表現は“ラク”じゃないけど“楽しい”

翻って、しかしこの演劇表現は「わかりやすい」だろうか。
否、わかりにくい。
見えないものを見て、聞こえない音を聞け、と、この作品は観客に要請するのだ。
観客側にも努力と能力が必要で、観客側も疲弊する。
「わかりにくく」、「親切でない」表現は、観る側にも決してラクをさせない。

昨今、YouTubeやTikTokが流行っていて、世の中の娯楽はどんどん“ラク”になっている。
子どもたちの読解力低下なども叫ばれ続けているが、大半の大人がスマホ依存症のこの国で、子どもの読解力など上がるわけがない、とも思う。
そして私も毎日YouTubeを垂れ流していて、まったく努力をする必要のない“ラク”な娯楽を日々消費している。

別に悪いことだと断罪するつもりはないが、この時代の流れだと、私の好きな「わかりにくい」表現は、どんどん衰退していくのではないだろうか、と危惧してもいる。
なにを隠そう、私自身が、好きなはずのその表現から、どんどん離れていっているのだから。やっぱり“ラク”はラクだからだ。

しかし私のよく見ているYouTuberやTikTokerの中には、観る側にも想像力を要請する動画で人気を博している人もいる。
「そうであれば、『わかりにくい表現は衰退していくのでは!?』と一概に言い切って心配するのは、杞憂になるのかなぁ」などと思ったりもする。

結局人は、“ラク”なものも好きだけれど、それと同じくらい“楽しい”ものも好きなのだ。
「わかりにくく」「親切でない」表現は、だからこそ“行間”を有している。
想像の余地があるからこそ、観る者は想像の旅へどんどん飛び立っていけるのだ。
想像するのは楽しい。想像の世界で遊ぶのは楽しい。
“楽しい”は楽しい。
だからきっと、「わかりにくい」表現は廃れない。

「わかりやすい」も「わかりにくい」も、愛ゆえだからときめく

私は「わかりにくい」表現が好きだ。
想像の世界で遊ぶのが好きだからだ。

そして私は私の内面世界のための言葉も好きだ。
わけがわからず、感覚的で、思いきりがよく、果てなく自由だからだ。

だけど私は「わかりやすい」表現だって好きだ。
間をとって中立を気取ろうとしているのではなく、本当に好きだ。
だってわかりやすいからだ。
わかりやすければ、たくさんの人とわかり合い、つながり、思いを共有することができるからだ。

そして私は、私の社会生活のための言葉も好きだ。
たまに「文章がわかりやすいね」と褒めてもらえることがある。嬉しい。
私が操る「わかりやすい」言葉は、私が他者とつながってきた“これまで”の軌跡だからだ。
そして、私が他者とつながる“これから”への希望でもあるのだ。

いい作品を見ると、心の中になにかが灯る。
全体的にもの静かで落ち着いた印象の公演だったけれど、それでも私の心にはなにかが灯った。
言葉への愛、演劇への愛、自分への愛、他者への愛。
これらこそが私の、“トキメキ”の源泉なのかもしれない。

 


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