思いやり

昔から、「人を思いやる心」に触れたとき、それを「美しいな」と思うタチだった。


子どもの頃、お母さんがレジで店員さんに「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれて、「持ってないです、すみません」と答えた。
私はその「すみません」に疑問を抱いた。「なにも悪くないのに、どうして謝ったんだろう?」と。
それでお母さんに聞いたら、お母さんは「ポイントカードがあるかどうか、わざわざ労力を割いて聞いてくれたのに、持ってなかったから悪いなと思って謝ったんやで」と教えてくれた。

今大人になって思うのは、「やっぱりあの場面で『すみません』と言う必要はないな」ということ。

というか、母だって、あのときなんとなく「すみません」と言っただけで、毎回言っているわけではないと思う。というか、言っていない。

でもともかく、私は、そこまで深く相手のことを思いやり、慮り、相手の労力に対して想像力をはたらかせる、その心の在り方を「美しい」と思ったのだ。


子どもの頃、お父さんと2人でハイキングをしていたとき、砂利だらけの登山道に、きれいに折りたたまれたピンクのハンカチが落ちていた。

「登山道に落ちている」のに、「きれいに折りたたまれている」というギャップが面白くて、私はお父さんに「あのハンカチ、落ちてるのにきれいにたたんである!」と言った。

するとお父さんは「ああ、落とし物をだれか親切な人がきれいにたたんでおいてあげたんやろうな」と答えた。

私はその答えを聞いたとき、「なんて美しい人なんだろう」と思った。
見ず知らずの他人が落としたハンカチ。
別に汚く落ちていても、きれいに落ちていても大差ない。
だけどたしかに、砂利の上よりは汚れのつきにくい小さな岩の上に置いて、きれいにたたんでおいてあげたほうが、よいか悪いかで言えば、よいだろう。

小さなことだ。
でも、落とした赤の他人のことを、そこまで思いやれるその想像力と優しさに、私は非常に胸を打たれたのである。


時は過ぎて、25歳の大人になった私。
そういった原体験があるので、私は日頃、そういった小さな親切をできる限り行うようにしている。
時間がないときはスルーしてしまうけれど、できるだけ、道に落ちているゴミは拾ってゴミ箱に捨てたり、落とし物は踏まれにくそうな場所に移動させたり、夜中に酔いつぶれて道で寝ている女性(だいぶ危ない)に水を渡して早く帰るよう促したり。

善人であろうとする自己満足の偽善かもしれないが、
私自身としてはそんなつもりはなく、
ただ、そういった行いを美しいと思うから、
そういった行いをする人間でありたいと思うから、
無理をするでもなくそうしているだけである。
(それが偽善か)

しかし、そういった「小さめの親切」は大した労力なくできるけれど、
もう少し「大きめの親切」となると、途端に難しくなるときが出てくる。

そして、「大きめの親切」というのは、往々にして、赤の他人ではなくより親しい人たちやより大切な人たちに対して行うものなのである。

つまり、親しい人たちへの親切こそ、難しい。
とても難しい。

例えば、疲れている人の代わりに仕事をやってあげたり。
イライラしている人に笑顔で冗談を言って笑わせてあげたり。
悩んで苦しんでいる人の愚痴を聞いてあげたり。
そういう「大きめの親切」は、小さめの親切と違って労力がかかる。
ものによっては、だいっっっぶ大変である。
ものによってはこちらまで負の渦に引きずり込まれたり、
こちらが体調を崩したりしてしまう。

そこまで大きな親切でなくても、
自分自身が「ちょっと疲れている」とか、「ちょっとイライラしている」とか、「ちょっと寝不足である」とか、ちょっと余裕がなくなれば、
「大きめの親切」は、たいした大きさじゃなくても途端にできなくなる。
「みんな疲れてんねん(怒)」とか、「不機嫌を撒き散らすなよ(怒)」とか、「愚痴ばっかうっさいねん(怒)」とか、なんなら親切にするべき弱っている人に対して、ブチギレ感情を抱いてしまうことすらあるのである。

そしてまた難しいのが、
例えば疲れている人がいて、今は余裕があるからと代わりに仕事をやってあげたら、
なんか思いのほか自分が疲れてしまって、
それ以上の親切はできなくなる……とか、
なんならその相手に逆に気を遣わせてしまった……とか、
そういうことも起こるのだ……。

「人にはできる限り親切にしたい」と思うのは、
私にとっては、ごくごく自然な感情である。

これを聞くと人によっては「偽善者だなぁ」と虫唾が走るかもしれないが、
申し訳ないが、正直なところそうなのである。

人にはできる限り親切にしたい。

だが、その「親切」によって自分自身が疲れ果ててしまっては本末転倒だし……

でも、目の前で同じプロジェクトを抱えて疲労度120%(限界突破)になっている人がいるのに、
自分が疲労度30%(寝たら回復)なのは公平ではないから、
私も疲労度75%(疲労困憊)になって疲労度を分担するべきなのではないか……?
そう考えると、私が進んで75%(疲労困憊)になるのは正しいのでは……?

でも気を遣わせるし……

とか、とかとか、いろいろ考える……今日この頃。

人を思いやるのにも体力が必要で、

人を思いやるのにも余裕が必要。

ああ、私、体力ないしなぁ。

ロングスリーパーやしなぁ。

むしろかなり神経過敏で疲れやすい体質やしなぁ。

私には、人を思いやることなんてできないのかなぁぁぁぁ……。

など。

25歳の大人になった私。
それでも、できる限り人を思いやり、慮り、親切にしたいという気持ちを決して失いたくはないのだ。
時に空回りするけれど……(泣)
時に逆に迷惑をかけるけれど……(号泣)

やめたほうがいいのかなぁ……。

いやいや……諦めたらそこでなにもかも終わる……。

80歳くらいになったら、「思いやり上手」になれているのかな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?