「ぶん殴り」としての「論破」

エリートのアイデンティティとしての言語運用能力

エリートのエリートたる所以を一つの要素に限定して話すならば、「知的な優秀性」(「」付きであることに十分留意されたい)というものが挙げられよう。ではその優秀性とは何であるかというと、概念を把握・操作する能力の高さであろう。文科系に限れば、それはすなわち自然言語(日本語、英語などの一般的に話される言語。論理式などの「形式言語」などと対置される)の運用能力と重なる部分が大きい。

以上を整理すると、概念を扱う能力に優れる者がエリートとされる。特に文科系ー文理を隔絶したものとして議論することの陳腐さは百も承知であるが実態を踏まえあえてこの用語を用いるーのエリートは、ことばの運用能力に長けていることによってエリートたり得る、ということであった。

雑な議論で恐縮だが、大筋でこの議論の含意するところを認めるのであれば、要は「文科系」エリートはことば・議論がうまい、ということになる。

つまり、(「文科系」)エリートはエリートである以上言葉がうまいのは当たり前なのである。

エリート批判の風潮と、応答としての「論破」の哀しさ

昨今、日本でも世界でも、主にSNSなどでエリート批判、とくに人文社会科学系の研究者や官僚・官僚出身の政治家の「エリート性」を取り上げて批判する文脈が強まってきている。大衆的な動きの中にもそれがあるし、世界にはそれを利用して自らの政治勢力を伸長させようとする者たちもあふれかえっている(アメリカのトランプ、フランスのルペン、日本では維新の会など)。それらの議論に軽率で危険な面があることは確かに明白である。

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(写真は朝日新聞デジタルhttps://www.asahi.com/amp/articles/photo/AS20200621000701.html より)

しかし、エリートはそれらを(再)批判し、「論破」するということだけで満足を得てはいけない。エリートの条件が言語運用能力の高さである以上、エリート批判はそうした能力の価値そのものへの懐疑・攻撃でもあることを忘れるべきではない。

「ぶん殴り」としての「論破」

エリートをボクサーに、言語運用能力をパンチ力に置き換えて考えればわかりやすいだろう。ボクサーという存在が(野蛮だなどという理由で)批判されるとき、それに対してパンチ力を見せつけることは応答として何の有効性も持たないのである。

特に、「論破」の悲劇的な価値のなさには留意するべきである。「論破」はボクサーの例でいえば「相手を殴り倒すこと」に等しい。ボクサーを野蛮な存在であると批判する者を殴って黙らせようとするその行為そのものの不誠実性はともかくとして、それが(少なくともボクサーの暴力性を批判する相手に対しては)何ら説得という点で有効ではないことは火を見るよりも明らかだろう。

自己相対化という徳目と批判のありがたさ

エリートは、エリート批判に対し自らの武器で応戦するだけでは勝利を手にすることはない。エリート批判がエリート自身の武器や戦い方そのものを激しく批判しているという点に(それが説得的な批判であろうとなかろうと)留意することが極めて肝要である。

そして、エリートが自らへの批判に対し誠実であり続けようとするならばそれはなおのことである。

知性のもたらす恩恵は、批判の受容(それどころか批判への感謝)、より踏み込んでいえば、批判の受容による自己相対化とそれによる昇華、にあるのだから。

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重力と理性
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