世界中の人の幸せを祈る
久々に、こう言う意識高い系の文章を書く。あまりに毎日こういうことを書きすぎた時期があって、なんだか嘘くさくって、最近はさけていた。
わたしは、すごい気づきがあった。
昨日、バスに乗っていて、ふとあることを思い出した。そうだ。人の幸せを祈るんだった。
私は、とある施設で神様のことを学んでいる。
今まで、中途半端に思っていた教えだったが、この頃改めて実践していこうと思いたっていた。
実践していると気持ちも明るくなって、幸せな気持ちでいられることが多くなってきた。
バスの話に戻りますが、とある停留所でおばあさんと子連れのお母さんが乗ってきた。
わたしは、教えていただたとおり、その方々の幸せを祈っていた。そしたら、なんだか自分の気持ちも明るくなっていく、不思議だ。
神様の教えの中には、譲り合いのできる人になることというのもあった。
バスの中で降りるときに、あるおばあさんを先に譲った。そのあと若い男性が降りるのが見えたが待たずに、自分が先に降りてしまった。
おばあさんには譲って良い行為ができたな。でも、若い男性にはできなかった。惜しかったな。勿体ない、譲っておけば。。。
厳密にはわからないけれども、したことは返ってくると学んでいるつもりだ。ブッタのカルマの教えでも、悪い業(行い)は悪い結果になるという。
つまり、私はおばあさんに譲っても、若い男性に譲っても、よい行為をすることになる。
となると、よい行為はその方々がいなければできない。となると『している』のではなく『させていただいた』のである。
『させて』『いただいた』のである。『もらった』のである。良いことをさせて『いただいた』ことで良い結果を『いただける』のだから。
そう思うと喜んで、人に譲りたくなってくる。人の幸せもそうだ。
ヨーロッパの研究では、ある患者を2つのチームにわけて、片方は祈ってもらって、もう片方は祈ってもらわずにいるというものがあった。
この実験では、祈ってもらった方は、死者がでず、快方に向かったと過去の研究である。
わたしは、神様の教えを学んでいるので、祈りの体験談はいくらでも聞いている。
私一人が、世界中の幸せを祈って、少しでも世界が良くなったらどんなに素敵なことだろう。
わたしは、昨日そんなことを考えて、明るい喜びをかんじていた。
わたしは、いつもきれいな気持ちでいるかというとそうではない。落ち込んだり、嫉妬したり、イライラしたりいろいろある。
でも、その時間を人の幸せを祈る時間にかえたら、少しでも長くきれいな心でいられると思う。
何を考えて、何を思ったかは、人生に影響を及ぼしていくと思う。何を食べて、どんな身体になっていくような。
わたしは、少しでも明るい気持ちでいたいので、人を祈るよう切り換えられる人でありたいと思う。