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財務会計の理論を勉強してみて思ったこと
今日も今日とて公認会計士の財務会計論を勉強している。
財務会計論は会計士試験の中心課題と言ってもよく、他の科目より配点も高い。
「財務会計を制す者が会計士試験を制す」とも言われているくらいだ。
ということで、まだ学習を始めたばかりだが、財務会計の勉強に力を入れている。
基礎をまずしっかりと固めていきたいと思っている。
ところで、財務会計には計算問題と理論問題が出題される。
この二つは、どちらも財務会計のテストで出題されるので、科目が分かれているわけではない。
しかし、それぞれの問題へ対策するための勉強法がけっこう異なる。
計算問題は、その名の通り数値を計算をする問題だ。
たとえば、「当期の減価償却費を答えなさい」とかいったように問われ、与えられた情報を基に、計算によって答えを導き出す。
つまり、問題文を読解して、求められている数値を算定する問題だ。
なんというか、国語と数学が合わさったような感じと言えるかもしれない。
これに対して理論の問題では、まず文章が提示され、それが会計のルールに則して正しいか間違っているかを答える。
会計には無数のルールがあるが、それに則したことが書いてあるか、それとも間違ったことが書いてあるかを自分で判定しなければならないのだ。
この理論の問題に関しては、計算の余地はない。
文章がはたして正しいのか間違っているのか、それだけだ。
そうなると、そもそもその文章が何を言っているかを理解する必要があるので、国語力は当然要る。
だが、それだけではなく、無数にある会計ルールをきちんと理解した上で憶えておかないと解答できない。
そういう意味で、理論問題は国語と社会を合わせたものみたいに、個人的には感じている。
さっきも言ったように国語力はもちろん要るし、それと同時に、物事の背景を押さえたうえでの記憶力が必要になるからだ。
社会と言えば「単に暗記するだけ」と思われがちだが、本当に社会が得意な人は、物事の背景まで押さえたうえで憶えているものだ。
たとえば、歴史が得意な人は、「この戦争が起こった背景にはこの事件があったのだ。そして、この事件が起こったのは、こういった時代の流れがあったためだ」といったように、「なぜそれは起こったのか?」という背景も込みで記憶している。
一つ一つの事件や出来事を細切れで記憶しておらず、それぞれを関連付けることで、あたかも「一つの物語」のように把握しているのだ。
そうして「物語」にすることによって、記憶は色彩豊かで奥行きのあるものとなり、長期間忘れずに保持されやすくなる。
ただ単に頭から丸暗記すると忘れてしまうようなことでも、忘れにくくなるわけだ。
ただ、正直に言おう。
私は学生時代に社会が大の苦手だった。
それというのも、上記のような視点を欠いていたからだ。
「社会と言えば暗記するだけのつまらない教科」と思って、敬遠していた。
私は昔から「丸暗記」というのがどうも苦手で、「いいからこのまま憶えなさい」と言われると、どうしても拒絶反応を起こしてしまう子どもだったのだ。
だが、大人になってからこんなサイトに出会った。
ここでは、サイトの管理人である高校世界史の先生が、授業でした話をライブ感あふれる文体で記述してくれている。
無味乾燥な「歴史的事実」に彩りを添え、そこにどんな背景があったのかを教えてくれる良サイトだ。
サイト内では、歴史的人物の意外な一面や、戦争や事件の裏事情までもが、まるで見てきたように語られている。
20代の半ば頃にたまたまこのサイトを見つけて読むようになった私は、「世界知って面白い!」と思うようになったものだ。
「社会の勉強というのは、ただただ事実を丸暗記するものではなくて、こうやって理解しながら憶えていくものなんだ」と、私はその時に初めてわかったのだった。
それから幾星霜。
今の私は財務会計の理論について勉強している。
さっきも書いたが、財計の理論は国語と社会が合わさったような感じの科目だ。
読解力が必要なので国語力は当然要るが、それだけではなく、会計ルールの背景を理解した上での記憶力が求められるのだ。
もちろん、会計ルールを頭から丸暗記していくことも、人によってはできるのかもしれない。
だが、憶えねばならない量は、あまりにも膨大だ。
「一から全部丸暗記」というのでは、私にはとても憶えきれないし、そういう憶え方をした記憶というのはだいたいすぐに忘れてしまうものだ。
だからこそ、理解が大事だ。
「このような会計ルールはなぜできたのか?」
「この規則があることによって、誰のどんな役に立っているのか?」
そういった観点を常に忘れないようにテキストを読む必要がある。
たとえば、昔(数世紀前)は中小企業が多かったから、だいたいの企業はすぐに潰れてしまっていた。
だから、企業にお金を貸している側(債権者)は、潰れた時にお金が返ってくるか心配になる。
そこで、企業の資産がどれだけあるかを重視する傾向が強かった。
企業に資産(この場合、現金になるもの)がたくさんあれば、万が一倒産してもお金を返してもらえる。
逆に資産があまりない企業は、倒産したらお金が返ってこない可能性が高いので、要注意ということになる。
そして、企業の側もお金を貸してもらえないと困るので、債権者が安心してお金を貸せるように、「うちの資産はこれだけあります」ということをわかりやすく表示した報告書を作っていた。
この時代には、「資産的な余裕がどれだけあるか」ということが、みんなの知りたがっている情報だったわけだ。
だが、その後、中小企業中心の時代は終わり、大企業がたくさん現れてきた。
そうなると、簡単には企業は潰れなくなる。
「企業ってずっと存続するものだよね」という前提で話が展開するようになるわけだ。
そうなると、「資産的な余裕があるかどうか」ということを、人々はあまり気にしなくなる。
代わりに、「この企業ってイケてる?イケてない?」ということを気にし出した。
要するに、「利益をちゃんと出す企業かどうか」を人々は気にし始めたのだ。
それに伴い、企業は債権者からどんどんお金を借りるよりも、株主から出資を受けることを重視するようになる。
借りたお金は返さねばならないが、出資されたお金には返済義務がないからだ。
企業からすると、株主にたくさん出資してもらいたい。
株主からすると、企業にはたくさん儲けて配当をしてほしい。
企業が儲ければ儲けるほど、株主は多額の配当がもらえるし、株価も上がって株を売った時の利益も大きくなる。
それゆえ、株主からすると、「資産がどれだけあるか」より「儲けはどれだけ出てるか」のほうがずっと大事な情報ということになる。
その結果、企業は「資産の余裕があること」よりも、「利益がたくさんあること」をアピールするように、報告の仕方を変えていった。
これをもって、「静態論会計から動態論会計への移行」と言う(と財務会計のテキストには書いてあった)。
といった具合で、なぜ現行の会計ルールは「こんな形」になったのかには理由がある。
時代的な流れがあり、様々な立場の人々の思惑がある。
そういったものも込みで理解して憶えること。
それが、財務会計の理論を勉強していくうえで重要なのではないかと思っている。
なので、勉強中は一人でブツブツ言いながらテキストを読んでいる。
「読んでいる」というか、「説明している」。
たとえば、テキストを少し読むたびに、そこに書いてあることを要約したり言い換えたりする。
または、さっき上で書いたみたいな「なんでそうなったのか?」という物事の背景を、誰かに教えるつもりで言語化したりもする。
私の場合、テキストを黙々と読んでいると眠くなってしまうし、字が目の前を滑っていくだけで、いくら読んでも頭に入らない。
それでは、読んでいて手応えというものがまるでないし、勉強していて面白くもなんともない。
だから、あたかも誰かに説明するかのように「一人講義形式」で、テキストの内容をかみ砕いていく。
「この文章が言いたいことは…」「だから」「つまり」「ということは」と、絶えず独り言を言いながら勉強している次第だ。
もちろん、理解するのには骨が折れる。
だが、こうやって理解した上で憶えた知識のほうが応用もきくだろうし、忘れにくくもなるだろう。
独り言を言いながら勉強するのも、まったくの無駄ではないはずだ。
ただ、このやり方は、機械的にテキストを読むのに比べると時間はかかる。
なので、時間に余裕がなくなってきたら、機械的に結論を暗記することも大事なるのかもしれない。
だが、そもそも面白くないと勉強というのは続かないので、なるべく理解しながら学んでいきたいと思っている。
明日の夜には予備校から紙のテキストが届く。
今はまだwebテキストで予習をしている段階だ。
テキストは、最終的に全部で70〜80冊ほどになると聞いている。
今回、初めてのテキスト送付でいったいそのうちの何冊が送られてくるのか…(ドキドキ)。
ともあれ、今は基礎を一つずつしっかり固めながら、着実に進んでいきたいと思っている。