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「悩み」と「苦しみ」を分離するには

以前、真理の3つの側面である「サット・チット・アーナンダ」のうち、「チット(意識)」と「アーナンダ(至福)」の関連性について書いた。

今回は、「アーナンダ(至福)」に焦点を当てて書いてみたい。

「アーナンダ」とはいったいどんなものなのか?
そして、どうすれば「アーナンダ」を理解することができるのか?

今回はそういったことを解説していく。
それでは、行ってみよう。


◎それは「圧倒的な幸福感」ではない

まず、最初に言っておかねばならないことがある。
それは、「アーナンダ(至福)」とは、あらゆる感情を凌駕するような「圧倒的幸福感」のことではないということだ。

「アーナンダ」は別名「ハート」とも呼ばれ、胸のあたりに感じられる。
実際、「ハート」が表に出てきた時は、主観的には胸に「穏やかな解放感」があるように感じる。
それは「無条件に満たされた感覚」であり、「何も求めるものがない状態」でもあるのだ。

だが、それは決して刺激の強いものではない。
たとえば、「美味しいものを食べた時の感動」とか、「好きなドラマに熱中している時の楽しさ」のように、一時的に我を忘れさせるような没入感がそこにはないのだ。

だから、「『ハート』を理解することができれば、きっとこれ以上ないほどの幸福感に浸れるに違いない」と期待していると、肩透かしを食うだろう。

「ハート」はそういうものではない。
それは決して、この世の全ての苦しみを洗い流してくれるような、「圧倒的エクスタシー」ではないのだ。

「ハート」を求めるのであれば、この点をまず理解しておく必要がある。

◎感情に翻弄されて、私たちは「我が家」を見失う

繰り返すが、「ハート」は決して「エクスタシー」などではない。
「ハート」とはむしろ、「何でもなさ」の中に在る「静かな幸福感」だ。

それは淡々としていて、なぜか落ち着く。
まるで「懐かしい我が家」に帰ってきた時のような安心感がそこにはある。
それが「ハート」だ。

しかし、多くの人は「我が家」に落ち着いていることに飽きてくる。
もっと強い刺激を求めて、「外の世界」に出て行ってしまうのだ。

世の中のほとんどの人が「ハート」を見失っている理由はこれだ。

誰もが内側に「ハート」を持っているし、生まれた時は「ハート」と共に在った。
でも、「ハート」にはあまり魅力がない。
多くの人は、「ハート」よりもっと強い刺激を求めるのだ。

結果、「何かを得たい」と思ってがむしゃらに働き、「もっと人から認められたい」と望んでは走りまわる。
そうして、「ハート」から彷徨い出ているうちに、「我が家」への帰り方をすっかり忘れてしまうわけだ。

多くの大人の「ハート」の上には、無数の感情や願望が積み重なっている。
そして、当人が人生に多くのものを求めていればいるほど、その層は分厚くなる。
「ハート」という「最初から内に在ったもの」を捨てて、「人生」という「外側の舞台」に投資してきたプロセスの全てが、「ハート」を覆い隠して見えなくするのだ。

実際、喜びや楽しさといった「気持ちの良い感情」を追い求め、苦しみや悲しみといった「ネガティブな感情」から逃げ続けることで、当人は「ハート」から離れていく。

たとえば、「褒められると嬉しい」とわかったら、当人はその感情を何度も味わおうとして、必死になって頑張るだろう。
そうして「ハート」は忘れられる。
「ハート」がもたらす「穏やかな解放感」よりも、褒めてもらえた時の「天にも昇るような感覚」にすっかり魅了されてしまうのだ。

反対に、苦しみから逃げようとしてもがく場合もある。
だが、逃げれば逃げるほど、その苦しみは深くなる。
そして、苦しみが「ハート」を覆う層となって、積み重なっていくことになるのだ。

◎感情という雲が去った時、そこに「ハート」は在る

そういう意味で、喜怒哀楽のあらゆる感情は、「ハート」というそらにかかる雲のようなものだ。

感情は来ては去っていく。
まるで、空の上に雲が来ては去っていくのと同じように。

だから、もしも特定の感情を追いかけることなく、また感情から逃げ出すこともなく留まることができるなら、いつかは全ての感情がなくなる。
その時、「ハート」はそこにある。

というより、「ハート」は元からそこに在った。
感情という雲が在ろうが無かろうが、「ハート」というそらはびくともしない。
「ハート」は単に感情によって一時的に覆われ、見えなくなっていただけで、ずっと雲の向こう側に在ったのだ。

「ハート」に辿り着くためのポイントは、特定の感情を追いかけたり追い払ったりするのをやめることだ。

どんな感情がやってきても、ただそれを味わう。
「心地よい感情」を留めようとして執着したり、「嫌な感情」から逃げようとしてジタバタしたりすることなく、全ての感情をただ味わうのだ。

すると、どんな感情も味わっているうちに消えていくことがわかるだろう。
楽しいことには飽きてしまうし、苦しみでさえ、いつかは消える。

問題は、「楽しいことを避ける人はいないが、苦しみはほとんど人が避けたがる」ということだ。
実際、多くの人が「ハート」を逃している理由は、誰もが苦しみを避けているためだ。

苦しみは、層となって「ハート」を覆い隠している。
「ハート」が表に出てくるためには、積み重なった苦しみを溶かす必要がある。

苦しみを溶かす方法は単純だ。
苦しみが溶けるまでひたすら味わうこと。
それだけだ。

「そんなの辛すぎるだろ」という声が聞こえてきそうだし、だからこそ、多くの人が「ハート」を逃し続けてもいるのだろう。
「そんな辛いことをするくらいなら、今のままでいいよ」とほとんどの人が思うはずだ。

だが、苦しみを味わうのにはコツがある。
それは、「悩むこと」と「苦しむこと」を切り分けることだ。

いったいどういうことか?
以下、説明してみよう。

◎悩むことなく苦しむこと

そもそも、多くの人は「悩むこと」と「苦しむこと」とを区別していない。
まるで両者を一つのものであるかのように考えている。

だが、「悩むこと」と「苦しむこと」は分けることができる。
実際、「苦しみはするけど悩まない」ということは可能なのだ。

多くの場合、何か「苦しい想い」が湧いてくると、私たちは同時にあれこれ頭の中で考え出す。

たとえば、「どうすれば問題を解決できるか」ということについて考え始め、余計に問題を複雑にしてしまう。
または、考えているうちに「最悪の事態」を想像して怖くなったりもする。
さらには、芋づる式に嫌な記憶が思い出されて、余計に苦しくなったりすることもあるだろう。

これらは「苦しみ」をトリガーにして「悩み」が湧いてしまっているパターンだ。
だが、「悩み」には「明確な答え」がない。
むしろ、「明確な答え」がないからこそ、人は悩む。
そして、そうやって悩めば悩むほど、どんどん苦しくなっていくわけだ。

「苦しみってそういうものじゃないの?」と思う人もいるかもしれないが、苦しみは頭で感じるものではない。
「悩み」のセンターは頭にあり、「苦しみ」のセンターは胸にある。

試しに、今度苦しみを感じたら、頭のほうで起こる思考は脇に置いて、胸のほうへ降りて行ってみるといい。
そこには純粋な「苦しみの感覚」だけがあり、「悩み」などどこにも見当たらない。
もちろん、苦しいことは苦しいが、頭の中で悩んで七転八倒している時とはまったく「味わい」が違うことに気づくはずだ。

そうして頭の思考を脇の置いて胸で苦しみを味わっていると、どこかのタイミングで苦しみが溶けて消えてしまう。
場合によってはいくらか時間がかかるかもしれないが、どんな苦しみもいつかは消えるのだ。

すると、あんなに苦しかったのに、もう苦しむことができなくなる。
非常に不思議な現象なのだが、苦しみがいつまでも続くことはない。
もちろん、生きていればまた違う苦しみが起こることはあるかもしれないが、どのみちそれも味わっていれば消えていく。

実のところ、頭を使うのは苦しみが消えた後でいい。
なぜなら、苦しみが溶けてなくなると、頭も明晰に働くようになるからだ。

そうすると、「やみくもに悩む」のではなく「冷静に考える」ということができるようになる。
落ち着いて、どうするべきかを考え、着実に行動に移すことができるようになるわけだ。

◎人は、悩めば悩むほど、さらに悩む生き物

だが、多くの人は「悩むこと」と「苦しむこと」を同一視し、「悩むこと」と「考えること」を混同している。
そうして考えても答えの出ないことを考え続け、苦しみを必要以上に長引かせてしまう。

そうなってしまうのは、そもそも「苦しむこと」と「悩むこと」を分けることができていないからだ。
悩むことなくただ苦しめば、苦しみは溶けて消えていく。

もちろん、それは苦しいことではあるが、どのみち私たちに逃げ場などない。
というのも、たとえどれだけ逃げ続けても、苦しみはどこまでも追いかけてきて、私たちにまとわりつくからだ。
誰もが、どこかのタイミングで苦しみと直面するしかないわけだ。

その時に、「悩む」のか「苦しむ」のかで、結果は大きく変わってくる。
苦しみをただ味わえば、それは溶けて消えていくが、反対に悩めば悩むほど、人はドツボにハマっていく。

たとえば、「自分はこの先も一生幸せになれないんじゃないか?」とか、「自分なんて生きていないほうがいいんじゃないか?」とかいった「余計な自己認識」を悩みは生み出す。
そうして、「悩むこと」によって私たちは自分自身を縛るようになり、ますます「苦しみの根」が深くなっていくのだ。

苦しみを終わらせるには、「悩むことなく苦しむこと」が大事だ。
そして、それが「ハート」に近づくための方法でもある。

実際、「ハート」を覆っている「苦しみの層」を溶かすことで、「ハート」は表に現れてくる。
苦しみをただ苦しむことが、「ハート」に至る道なのだ。

◎「喜び」を求めることと「苦しみ」を避けるのは同じこと

もちろん、「そんなの嫌だー」と思う人は、無理をして「ハート」を求める必要はない。
だが、遅かれ早かれ私たちは「苦しみ」と「喜び」が表裏一体であることに気づくことになる。

実際、「喜び」を求めるからこそ、思うとおりにならない人生に私たちは苦しむものだ。
そして、「苦しみ」が耐えがたいからこそ、「喜び」を求めずにはいられなくなる。
それらの現象は同じコインの裏と表だ。

「喜び」と「苦しみ」とは、まるでウロボロスの蛇のように、その尾を食い合っている。
「喜び」を求めるからこそ「苦しみ」が生まれ、「苦しみ」があるからこそ「喜び」への執着が強くなる。
私たちは何かを得ればそれを失うことを恐れるし、かといって何も持っていないと惨めな気分になるものなのだ。

このパターンが理解できるようになると、「結局『苦しみ』から逃れる術はない」ということも理解できるようになる。
なぜなら、「苦しみ」から逃れようとすることそのものが「苦しみ」を再生産していると、わかるようになるからだ。

このことを理解できた人が、真の意味で「ハート」に向かう。
当人の中では、「もうこの世のどこにも『楽園』はない」ということがはっきりしている。
だとしたら、ただ内側に向かう他に、どんな道が残されているだろうか?

「ハートの感覚」は、とても当たり前で懐かしいものだ。
それは「未知のもの」ではなく、「よく知っているもの」であり、常に私たちと共に在る。

「ハート」に留まることによって、ようやく私たちは安心できる。
なぜならそれは、「無条件に湧き上がる喜び」だからだ。

何か良いことがあったから嬉しいのではないし、それは苦しみから逃げて手にした「つかの間の平穏」のようなものでもない。

「幸せであること」にもはや理由は必要でなくなった。
当人にとっては、ただ存在していることそのものが「喜び」となるのだ。

◎まとめ

「アーナンダ(至福)」についてはまだまだ語ることが多くあるが、今回はこれでいったん終わろうと思う。

最後に今回のまとめをしておこう。

まず重要なポイントは、「アーナンダ=ハート」は「圧倒的な幸福感」ではないということ。
むしろそれは「当たり前の感覚」であり、「何でもなさ」の中に在る「静かな喜び」なのだ。

そして、「ハート」に近づくためには、感情の層を溶かす必要があるということ。
特に、苦しみと直面することは避けられない。
苦しみを避けようとし続ける限り、「ハート」が理解できるようにはならないだろう。

だが、「苦しむこと」と「悩むこと」は違うことだ。
悩む時、私たちは頭のほうに引っ張られるが、苦しみはいつも胸のあたりで起こっている。

悩むことなく苦しみを味わうためには、頭に引っ張られないように注意しなければならない。
そのためには、ある程度の瞑想力も必要になるかもしれない。
ただ、「悩み」と「苦しみ」を分離するコツを一度つかんでしまえば、苦しみを溶かすことも、さして難しくなくなるだろう。

今回は以上だ。
次回は、「アーナンダ=ハート」についてもう少し追加して書く。
その後は、「チット(意識)」について理解するためのポイントを整理する記事を書くつもりだ。

では、また。