「何もしない」という贅沢
お盆休みだ。
私の職場も6連休なので、今はのんびり過ごしている。
この一ヶ月、かなり集中して文章を書いたのだが、おかげでゆっくり過ごす時間がなかった。
まあ、別に自分でしたくてしていたことなのだが、そうして猛然と文章を書き続ける中で、自分が「ゆっくり過ごす時間」にどれだけ飢えていたか実感した。
「ゆっくり過ごす」と言っても、ダラダラ過ごしたかったわけではなくて、「何もしない時間」が欲しかった。
文章を書くのでも仕事をするのでも本を読むのでもなく、何でもない「空っぽの時間」が欲しかったのだ。
「すること」によって生活が埋め尽くされてしまうと、なんとなく息苦しくなってくる。
ノルマや義務に追われ、「あれをやって、次はこれをして」と忙しく動き回っていると、その時は充実感があるかもしれないが、徐々に私たちの心は「酸欠状態」になっていく。
自分の中に「新鮮な空気」を取り入れるためにも、「すること」はほどほどにして、「何もしない時間」をきちんと設けることが重要だと思う。
だが、私たちは「何もしない」ということが大の苦手だ。
たとえ暇な時間ができても、私たちはその暇を「何かをすること」によって潰そうとする。
たとえば、テレビや映画を観たり、本やネット記事を読んだり、you tubeで動画を見るとか、スマホでゲームをするなどして、私たちは与えられた暇を潰す。
暇な時さえも、私たちは何かせずにはいられないのだ。
「何もしないこと」を私たちは潜在的に恐れている。
なぜなら、何もしないでいると、自分が日頃無意識に抑圧している苦しみが噴き出してくるからだ。
瞑想の実践を始めたばかりの頃に、よくそういう経験をする。
たとえば、坐って何もしないでいると、過去の嫌か記憶などが繰り返し蘇ってきたりする。
あるいは、自分自身の嫌いな点について延々考えてしまったすることもよくある。
いずれにせよ、何もしないでいることによって、自分がそれまで無意識に抑え込んでいたネガティブな思考が、表に現れ始めるのだ。
自分の中のネガティブな思考と直面したくないがために、「すること」に取り憑かれている人が世の中にはたくさんいる。
たとえば、寝る間も惜しんで働いている人も、実際には自分自身が抱えている弱さや苦しさと向き合うのが怖くて、仕事に逃げているだけかもしれない。
なぜなら、仕事に熱中している間は、自分自身と向き合わなくて済むからだ。
これが、私たちが「何もしないこと」がうまくできない理由の一つだ。
つまり、何もしないでいると、自分の中に抑え込んできた「闇」が表に出てきてしまうからだ。
それを見ないでいたいから、私たちは「すること」によって自分を誤魔化すわけだ。
もう一つの理由は、私たちが「生産性」というものを崇める信者だからだ。
私たちは「常に有意義に時間を過ごさなければならない」という呪いにかかっており、「何もしない」などという「非生産的な過ごし方」は許容できない。
それゆえ、休日に何もせずに過ごしたりすると、罪悪感に苛まれる。
「時間を無駄にすること」は「罪」であり、「どんな時も生産的であること」こそが「善」なのだ。
そんな私たちの罪悪感を刺激しないよう、「何もしない時間を設けたほうがより生産性が上がる」という言い方をする人もいる。
いわく、「何もしない時間を過ごすことで脳がリフレッシュし、より意欲的に生産活動に従事できる」と言うのだ。
ここにおいては「何もしない時間」さえもが、生産性のために利用される。
なぜそこまで生産性を重視するのか私にはよく理解できないが、それくらい、非生産的であることは「悪」だと思われているわけだ。
だが、本来「何もしないこと」は生産的でも非生産的でもない。
それはただ、私たちの心が「ゆったりと過ごす時間」を求めている時に取られる選択肢の一つなのだ。
「何もしないこと」を活用してより生産的であろうと考えるのも、「何もしないこと」は非生産的で罪深いことだと考えるのも、どちらも等しく余計なことだ。
というより、「何もしないこと」が「生産性」という枠組みの中で語られる時、私はそこで何か大切なものが台無しにされている気がしてならない。
私たちが人生の中で立ち止まって「何もしない時間」を味わうのは、より効率的に生産できるようになるためではない。
むしろ、生産することばかりを価値とする考え方に違和感を覚えた時に、私たちは「すること」をやめて立ち止まるのだ。
この一ヶ月、私は文章を書き続ける中で、「何もしない時間」を失っていた。
何のためでもなく、ただ時の流れを味わう時間。
そういう「贅沢な時間」が足りなくなっていた。
「贅沢」というのは「無駄」だということだ。
実際、それは「何かのための時間」ではない。
「何かの役に立つ」と思ってそうしていたわけではなく、ただ「ゆったりと時間を過ごしたい」と思っていたわけなのだから、これほど「無駄な時間」もないだろう。
だが、そうしてゆったりした気持ちで時間を過ごしていると、心が徐々に満たされてくる。
「足りなかった何か」が自分の中に注がれていくのだ。
もちろん、何もしないでいると自分の中のネガティブな想いが出てくることもある。
でも、苦しい時間はずっとは続かない。
ネガティブな思考は、見つめていればそのうち消えていくからだ。
また、「こんな風に何もしないでいていいのだろうか?」と思うこともあるかもしれない。
「自分が怠けている間に、他の人たちはもっと頑張っているのではないか?」と思うわけだ。
だが、「生産性を競うゲーム」には終わりがない。
どこまで走っても「一番」にはなれないし、勝っても誰も満足しない。
そして、本当の満足とは、生産性を極めた時ではなく、自分自身にリラックスした時にこそ訪れるものなのだ。
今回、「何もしない時間を大事にしよう」と改めて思った。
何かを生産することなく、娯楽を受け身で消費して暇を潰すのでもなく、ただ頭の中を空っぽにして過ごす「空白の時間」。
それはとても「無駄な時間」であり、真に「贅沢」な時間の使い方なのだ。