【本】「恋の病」―『紅葉全集』第四巻(尾崎紅葉/岩波書店)

こんにちは、『猫の泉 読書会』主宰の「みわみわ」です。

「モリエール読書会」第11回目「嫌々ながら医者にされ」は、おかげさまで参加者同士、感想をシェアしました。物語については、先日のnoteで書いた通りです。

さて、明治時代に作家の尾崎紅葉(1868年-1903年)が、『恋の病』というタイトルで、この作品を翻案していました。読み比べたら面白かったので、そのあたりをご紹介します。

1.医者のふりをする方法

主人公のスガナレルは木こりですが、ひょんなことから、医者のふりをすることになりました。
医者のふりをするためには、まずは医者の服装。いまでいうと白衣と聴診器ってところでしょうか。

そして次に使われるのが、当時のインテリの証拠であるラテン語です。どうやらスガナレルは、昔、医者の手伝いをしていたようなので、医薬品の名前を多少知っているということも有利なようです。

この状況を日本に翻案したら、どううなるでしょう?

尾崎紅葉『恋の病』で、木こりの七兵衛は、妻のおかまへ、こんなことを言っています。

「いまこそ馬鹿な面している木こりだが、むかしは何の某という医者のお弟子様で、小学問の一つもした男だ。」
「折と場合によっちゃ理屈も云やあ、四角い文字も書く男だ」

ラテン語を、漢字に置き換えたんですね。かなは庶民のもので、漢字はインテリのものという感じでしょうか。うまいこと置き換えたなぁと感心しました。

2.夫婦喧嘩の場面

モリエールの場合、夫婦喧嘩しているところへ仲裁が入りますが、その時だけ妙に夫婦団結して仲裁者を追い払います。その後、夫に暴力を振るわれたことから妻は仕返しを企みます。

ところが、

尾崎紅葉『恋の病』にも喧嘩の仲裁者が現れるのですが、仲裁しても腹立ちをおさめない七兵衛の妻・おかまにキレて、仲裁者が、おかまをひどく殴ります。そしておかまは、夫が守ってくれなかったことに腹を立てて仕返しを企むようです。

プライベートに介入するものをあくまでも拒むフランスと、プライベートに介入する側が、むしろ強気である日本。なんだか思い当たるふしは沢山あります。

例えば「男女平等」も、公の場ではそうあって欲しいです。多様な人間が活躍できる方が、長い目で見れば社会が発展するからです。

しかし、プライベートの場では、互いが納得している限りは、どんなありようも自由なはずです。実際には、「互いが納得する」段階まで絆を深めるのがとても大変なのですが…。

それと、もともとは、おかまが「夫に殴られそうだから、誰か助けて」大声で叫んだから、仲裁者は駆けつけてあげたわけです。助けを求める声を放っておくのが普通な社会になっても嫌ですよね。

3.喜劇らしさ

モリエールの作品は、当時の医者が治療能力が無いくせに権威主義的であることを揶揄したところが喜劇のツボの一つだったのですが、紅葉の場合はその揶揄がありません。

尾崎紅葉『恋の病』の戯曲を眺めていると、金持ちの家の下男二人組の台詞がわりあいと長くて、漫才の「ぼけとつっこみ」になっていました。ここが喜劇として楽めるように紅葉はつくり込んだようです。太郎冠者と次郎冠者の伝統もあるのでしょうかね。

4.結末

モリエールでは、意に染まぬ結婚を避けるために、仮病で声が出なくなったふりをした娘が、藪医者スガナレルが「薬師」として連れてきた恋人と駆け落ちをします。でもやがて二人は戻ってきて、娘の父親に正式な結婚の申し込みをします。というのは、駆け落ち直後に、娘の恋人の叔父が死んで、その遺産のおかげで突然、金持ちになったからです。

ところが、尾崎紅葉『恋の病』はそういうの無しです。
「遺産で突然大金持ちになる」は、フランスと比べてリアリティが無かったのかもしれません。

なお、やぶ医者が、娘を逃がした罰として、モリエールは、「縛り首」でしたが、紅葉は「袋叩き」でした。この違いはどういうことなのか、これからゆっくり考えてみたいと思います。

■本日の一冊:『紅葉全集』第四巻(尾崎紅葉/岩波書店)

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