ブラックマンデーとは何か?
ブラックマンデーについては、一般的には解明されていない点が多いとされているが、一部の優れた投資家は事前に予測していた事案であり、ファンダメンタルズと投資家の心理の観点から説明が可能である。暴落の背景には1981年に米国の大統領に就任したレーガン大統領のレーガノミクスがあるので、先ずはここから始めたい。
ドル高を促進したレーガノミクス
元々の始まりはレーガノミクスである。1981年に就任したレーガン大統領は、前政権から受け継いだスタグフレーションに対処しなければならなかった。高い失業率にもかかわらずインフレ率は上昇し、米国の家計は低い賃金と高い物価の両方に苦しんでいた。
レーガン大統領は失業率を抑えるために財政出動を行い、減税によって消費を刺激しようとした。軍事支出を大幅に増加させ、また外交的にも共産主義国への強硬姿勢を見せることで、いわゆる「強いアメリカ」を演出した。
一方で、上昇していたインフレ率を抑えるためには金融引き締めが必要とされていた。金融政策ではそもそもレーガン大統領の就任以前より利上げがピークに達しており、レーガン大統領自身もマネーサプライの増加を抑える意思を引き続き表明した。財政支出の規模が大きかったこともあり、長期金利は上昇し、高い金利を求めた資金は為替市場をドル高へ導くことになる。ここまでの経緯を纏めると以下の通りである。
高失業率 → 財政出動 →金利上昇 → ドル高
高インフレ → 利上げ →ドル高
当時、アメリカ経済の問題は巨額となった財政赤字だけではなかった。日本やドイツなどの貿易相手国がドル高の恩恵を受けて輸出を続けたことで、米国の貿易赤字も容認できないレベルに達していた。
しかし高金利に惹かれた資金は、ドルのもとに集まり続け、「双子の赤字」と呼ばれた米国の財政・貿易赤字にもかかわらず、ドルは高値を更新し続けた。ドルはドイツマルクに対し、レーガノミクス以前のレートから50%以上も上昇した結果、通貨高に耐えられなくなったアメリカ政府は遂にドル高是正に腰を上げることになる。
プラザ合意
1985年9月22日、G5の財務相と中銀総裁たちがニューヨークのプラザホテルに集まり、ドル高の是正のために協調介入することで合意した。ドル高は双子の赤字というファンダメンタルズを反映していないとされ、米国政府は為替レートの是正が必要だと主張した。ジョージ・ソロス氏は自身の著書にこの出来事を以下のように書いている。
この時、円やマルクはドル高の行き過ぎから既に底値を超えて上昇基調にあったが、この合意はその新たなトレンドを決定的なものにした。ドルはここからブラックマンデーの起きる1987年まで、急激な下落トレンドを開始することになる。
バブルを造成した利下げとドル安
一方で、ドル高が米国のインフレ率を徐々に低下させていたことから、高止まりした政策金利は役目を終え、Fed(連邦準備制度)は利下げを開始していた。レーガン政権の序盤には19%まで上昇していた政策金利は、この頃には8%程度まで下落していた。
1982年に始まったこの利下げを好感し、株式市場は上昇を始めていたが、ドル高を是正するプラザ合意がこの傾向に拍車をかけた。したがって、1982年からブラックマンデーの起こる1987年までの株価上昇は、利下げとドル安によって作り上げられた強力なトレンドであり、投資家たちはこの2つの要素を前提として米国株を買い続けてきた。したがって、この上昇相場の終焉も、この2つの要因が崩れたときであったのである。
ルーブル合意
プラザ合意以来、ドルはドイツマルクや円に対して急速なスピードで下落していた。1987年2月22日、ドル安が行き過ぎであると判断した米国政府は、G7を主導し、パリのルーブル宮殿でドル安の行き過ぎを是正する合意を取り付けた。
これは、下がり続けていた米国の政策金利をFedが上げる一方で、円高、マルク高となっていた日本とドイツに対し、利下げを求める合意であったが、国内のインフレ率上昇を懸念していたドイツが同年9月にこれを破り、利上げを決行する。
ドル安を懸念していた米国にとって、更なるドル安・マルク高を引き起こすドイツの利上げは容認できないものであった。
また、5年間に渡る利下げによって支えられてきた米国の株式市場の参加者は、ドイツの利上げによって米国も利上げのペースを上げなければならなくなるだろうと推測した。
利下げとドル安によって支えられてきた上昇相場が、ドイツの協調拒否によってその両方を失ったのである。
ドルの自由落下か、株式の自由落下か
「双子の赤字」を抱えながら成長してきた米国株の上昇相場は、遂に八方塞がりの状況に陥る。米国の巨額の財政・貿易赤字はいずれ修正されなければならないと誰もが思っていた。
ジョージ・ソロス氏は早くから双子の赤字に悲観的だったが、各国の協調と管理された変動相場制が状況を軟着陸させる可能性を見て取ると、これを「資本主義の黄金時代」と呼んだ。しかしその要であった協調は、ドイツの離反で失われた。ドル安の行き過ぎを段階的に是正し、株式市場に大きな悪影響を及ぼすことなく利上げ・ドル高へと導くためには、為替水準に対する各国の協調が必要不可欠だったのである。
株式投資家には最悪の状況である。ドイツの利上げにつられてFedが急激な利上げに向かえば、真っ先に下落をするのは株式市場である。しかし逆にFedが利上げを躊躇えば、今度はドルが何処まで落ちてゆくか分からない。事実、米国のベーカー財務長官は、10月16日の記者会見で協調を破ったドイツを非難し、「ドイツが協調に協力しないのであれば米国は一層のドル安を容認する」と主張した。
これで株式市場かドルか、どちらかの下落は決定付けられてしまった。特に当時の株式市場では、ほとんどの投資家は為替ヘッジを付けていなかったこともあり、米国株の保有者はどう転んでも自分の資産が毀損される状況に追い込まれた。では彼らの唯一の選択肢は何だっただろうか? 米国株の投げ売りである。
1987年10月19日、ブラックマンデー
9月のドイツの非協調的利上げによって最後の支えを失った米国の株式市場は、その後ふらふらと方向感を失い、10月に入ると下落トレンド入りした。下落幅は日増しに大きくなり、10月19日、前日比で22.6%の下げを記録したのである。
ブラックマンデーについては、当時の稚拙であった自動売買システム(ポートフォリオ保険)などが下落を加速させたなどの見方があるが、その真相は利上げによる典型的な流動性縮小と、止まらないドル安が株式投資家を追い込んだ結果というわけである。
金融市場の暴落では、それまで何とか市場に保たれていた資金が行き場を失うというパターンが多い。債務危機では通貨と国債、どちらかの暴落は不可避であり、現在の状況では、株式市場か債券市場、両方の上げ相場が永遠に続くということは不可能である。
ちなみに、レーガノミクスからプラザ合意に至り、止まらないドル安が問題となるまでの経緯は、上記で引用した「ソロスの錬金術」によく書かれている。この本は、ソロス氏の再帰性の理論とともに1985年から1986年までのクォンタム・ファンドの日々のトレードを記録したもので、ソロス氏がドルを売ってドイツマルクと円に投資する様子や、米国の「双子の赤字」の危険性を指摘しながらも、上がってゆく株式市場に資金を投資し、上げ相場の天井を探ってゆく様子が詳細に描かれている。