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気になっていること(言葉の表と裏について)
言葉に表と裏があることを自分で認識して人とコミュニケーションを取ることが大事なのかもしれない。
自分の精神状態について知るために様々な論文を読もうとしている。
最近では、例えば「解離性障害における幻聴についての精神病理学的考察」という論文を読もうと思い、大学図書館を通してコピーを手に入れた。
言葉には表と裏がある。例えば、以前こうした本も読んだ。
この「表と裏」という問題には仮面の問題も関わっていると思う。
私は仮面を作りそして人とコミュニケーションをすることがある。
自分は精神的にどういう仕方で人と関わることができるのか、その点について思考しようとしている。私は自分の解離性障害に対する関係において苦戦している。解離性障害は効く薬がない。精神療法で治療していくしかない。
解離性障害に効く薬があれば、ぜひ飲みたいと思っているのに、そうした薬はまだ開発されていないようだし。
自分はどういう仕方で人と言葉を通してコミュニケーションできるのか。
最近『もう一人の私』という本を読んだ。
これは大事な観点かもしれない。
私には「もう一人の私」がいる。それは例えば自分が敬愛するアーティストだった和歌山で結成されたバンドのボーカリストの人の2人で作ったユニットのなかの曲の「INSIDE MYSELF」のなかでも取り上げられている。
この歌詞のなかにもあるように自分のなかには「あなた」と「私」がいるような構成になっていることがある時、どちらが「あなた」でどちらが「私」なのか、これは難しい問題で、先ほどの「もう一人の私」という言葉がある時、どちらが「もう一人の私」でどちらが「私」なのか、それは大切な問題だと思う。
これは、自分の場合、「基本人格」が「本来の私」、つまり「私」であって、「主人格」が「もう一人の私」なのだと思う。
「基本人格」はその人において内省ができる人格。
そして「主人格」はその人においてメインとなっている人格。
でも大事なのは、「主人格」であっても、「交代人格」の一つに他ならないということ。「主人格」は「交代人格」であるということ。
その人は本来「基本人格」に向けて統合されていく必要がある。
たとえ、それは「別れ」という辛い体験をその主体においてもたらしたとしても、その「別れ」を乗り越えて「基本人格」として生きていく必要がある。
その「基本人格」として生きていくうえでそれこそ「交代人格」の魂を鎮魂していく必要があるということ。
それは「主人格」においても例外ではなく、「主人格」の魂を鎮魂していく必要が最後はあるということ。
それは次の本で書いてあることから着想を受けたこと。
「基本人格」として一つに統合された心で生きていきたいなら、私は「主人格」さえも諦める必要があるということ。
正確には、「基本人格」のなかに「主人格」の魂を入れていく必要があるということ。それはカウンセリングを通してすることになっているのだろうけど、自分のなかでそれは時間がかかる試みになりそう。
私は自分が障がいを抱えていることを真の意味で受け容れられているのだろうか。
私はこの一人称的世界は精神病理的世界であるということ。
それはこの一人称において生きるしかない自分において真に苦しいこと。
そして「三人称」として自分を見ることができたら、どれだけ楽だろうかということ。
でも私はこの「一人称」を生きるしかない。
自分は他の人から隔てられた空間にいたとしても、それはこの「一人称」は自分が死ぬまで続く。
自分は苦しいとは思っている。自分は今大学院の研究生をしています。
2024.04から少なくとも2025.03までは大学院の研究生です。
この期間を通して自分の障がいを抱える主観についても理解が深まれば良いと思っている。
私は自分においてどうしてこの「一人称」を生きなければいけないのか、というパッション(受苦)を感じることがあるのだが、自分もこの辛い内省的で自己破滅的な時間を通して何かを得ていきたいとは思う。
どんな時も前向きであることは大事だと思う。
そういう風に自分の文章を持とうとしているし。
精神的に苦しんでいるけど、人生は最後まで生き切りたい。
自分の言葉(これは「表裏」ある言葉かもしれないけど)を書いて、人と意思疎通できるようになりたいし、自分のように内面において障がいのある人はむしろ「外言」をこそ組織化していくことこそが難しいのだろうが、自分の「内言」ではなく「外言」をなんとか切り出して、ここに貼り付けてみて、反応はないかもしれないけど、そうすることで自分を「開く」ことができるのではないかと思うのだった。