百合とは異なるかもしれないが、まだ色はつかないものについて。:音楽とはならないだろうが、存在してしまう声についての認識

ブログを始めた時に自分はこう書きました。

私には様々な問題がありますが、性の問題はそのうちの1つで(問題というと正さなければいけないものだというニュアンスもありますが、)私自身は自分のことはトランスジェンダーでレズビアンという言葉で言い表すことができてしまう人だと思っています。(ただし、人生のなかで普段の生活において性役割として男性を担っていることが多いということです。もちろん、解離の問題の影響もそこにあるとは思います。)

その点について関連した記事を見つけました。トランスジェンダー女性でありかつレズビアンであるということを認めた人についての記事でした。
その人は、子どもの頃から性について思い悩む気持ちはあったけれど、男の子を好きになろうとしてもどうしてもなれなかった(ゲイになろうとしてもなれなかった)。むしろ女性に魅力を感じていた。そこで、自分がむしろストレート男性なのだろうと思い込もうとしたけれども、「ずっと女の子になりかったんだよね」という他の人の発言を聞いて、自分も「それかも」と思って、また腑に落ちる感覚があって、トランスジェンダー女性だというアイデンティティを持つに至ったということで、実際にレズビアンのコミュニティからも受け入れられている人ということになる。(※私はここで「腑に落ちる感覚」があったことはすごく大事なことだと思います。)
そのことについて確かに日本ではまだそこまでLGBTQ+の土壌が広まっていないということはあるだろうけれども、トランスジェンダー女性であっても男性が決して同時に好きになっているというわけではないケース、つまりトランスジェンダー女性×同性愛者というケースがここですごくポジティブで人を勇気づけるストーリーとして書かれているということがあり、それがとても大事なことだと思ったのでした
そのことについて、このトランスジェンダー女性のことを自分もその同じような問題を実は感じている本人として勇気を持って支持したいと思っています。自分には勇気がなく、男性の規範に合わせている今日この頃であったとしてもまた国や文化が違ったとしても、私はこの女性のことを支持したいと思っています。
カムアウトというものは、本来は人を勇気づけるためにあるのではないかと思うところがあります。
例えば、公にしているからここで取り上げても良いと思うのですが、テイラー・スウィフトは摂食障害に苦しんだことがありました。

テイラー・スウィフトのこの告白は多くの人を勇気づけるものであったのでしょう。先述の記事において、自分が「トランスジェンダー女性」でありかつ「レズビアン」であるということを告白した人は、とてもポジティブに人々を動かしていると思います。インスタグラムの様子はそのように見えます。
その意味でその人のその行動は人々を良い方向に動かしていると思います。
私は自分の障害について、(たとえジェンダーのことは措いておいても)それを言うことで周囲を同じように勇気づけるものでなければならないだろうと思っています。
周りから同情を買うためでもないし、ないし自分の慰めのためのものであってはならないのだろうと思っています。
どこかで周囲の人を勇気づけるものでなくてはならないのではないかと思っています。

自分はある時まで自分のことを「特異な存在」として感じているところが無意識ながらあったのだろうと思います。それはしかし、「意識の分割」があるからということになっていて、それは「解離」として考えられるという説明用語を手にすることによって、ある程度一般化できる話になってきたと思っています。
「特異な存在」として感じていたのは20代の頃ということになります。
「特異な存在」として感じるとはしかし、例えばPSYCHO-PASSの槇島聖護というキャラクターはそうであったし、そういった社会の枠からはみ出た能力者のことであったのだと思います。そこには自分に対する無意識の自惚れがあったのではないかと思っています。
私自身は確かに自分の病状について知ることによって、自分のこれからについてまた考えることができるようになりました。一時期はもっと酷い精神状態でした。

最近、元TOKIOの山口達也さんが「アルコール依存症」脱却のために新しい会社、自分の名前が入った会社を立てたということをニュースで知りました。
私は自らの病状を知ることとそこからの社会復帰という点において、山口達也さんのことを支持したい気持ちが出てきました。もう一度山口さんが社会に対して貢献できることを本当に祈っています。

解離について、斎藤環さんの『「自傷的自己愛」の精神分析』のなかで、SNS環境との関係で、また「キャラ化」との関係で述べられていました。
また気になったところを最後に引用させていただきます。

〔…〕「キャラ」とは、ある種のコミュニケーションモードが凝集された疑似人格、と考えることもできます。
 実はこの点において、「解離」が問題となるのです。
 かなり長い回り道でしたが、私が二〇〇〇年代を「解離の時代」と読んだのは、まさに「キャラ化」が一気に進んだ時代でもあったからです。
 簡単に言えば、キャラは多重人格(解離性同一性障害)の交代人格とよく似た特徴を持っています。解離性同一性障害の患者は、意図的かどうかは別として、甘えたいときには幼児の交代人格を、攻撃性を発揮したいときには乱暴者の交代人格を出すことがあります。まさにコミュニケーションのスタイルに特化した人格、と言えるでしょう。また、それぞれの交代人格はしばしば類型的で深みがなく、内省能力も不十分であることが多いのです。その意味で交代人格は、「本来の人格」に準ずるような仮想的な存在と考えることもできるでしょう。こうした特徴は、ことごとく「キャラ」にもあてはまります。
 つまり私の仮説では、まず「解離の時代」という背景があり、ここにネット環境とSNSという「つながりのインフラ」も相まって、一気にキャラ化が進んだ、ということになります。承認依存(=つながり依存)は、「キャラとしての承認」をひたすら追求する欲望として、もはや世代を問わず共有されることになったのです。これらの関係は、直線的な因果関係というよりは、結果が原因を強化するような円環的因果関係のもとにあります。解離の時代がネット環境への依存度を高め、ネット環境の発展が解離モードをいっそう強化する、といった循環ですね。それゆえすっきりした経年変化として述べることはもはや困難ですが、ここではごく大雑把な流れを記すにとどめておきます。

斎藤環 『「自傷的自己愛」の精神分析』角川新書、2022、120-121頁、太字強調は原著著者による。

私はSNSを良く使ってきましたが、確かに自分のなかで意識の分割があることを知らず、「自分の思っていること」と思っていることをそのまま書いてしまいました。そしてSNSの使用において、そうした精神の問題があることを自覚なく続けてしまったことによって、最終的に自分は妄想に襲われ、また周囲にも迷惑をかけてしまいました。
今でもSNSの使用は自分にとっても課題なことなので、上手くできることではないのです。少なくとも自分で意識を保って書くことができなければ大きな問題を生じさせてしまうことになるのではないかと思うのです。
自分については解離の問題があると言われているので、確かに実際に発声しながら書くとか、あるいは意識を集中させる技法を自分で身につけるとかといった工夫が必要です。
私の文脈とはまったく関係ないのですが、タイトルだけで言うと、「もう一つの声」というものが確かに問題になっています。「もう一つの声」とは次の本です。また「声の分割」もあると思います。ただ私の文脈とはあまり関係がないかもしれません。

最初にトランスジェンダーレズビアンの人の話をしたのは、私も厳密には「女の子になりたい」と思ったことがある人だから、性別違和を感じたことがある人だからです。ただ、毎日の暮らしは先の括弧でも書いたように身体の性である男性の規範に合わせて今は生きています。(※ただし、女性ホルモンも飲んだことはあります。)
ただアイデンティティを厳密に突き詰めると、私もトランスジェンダーのなかに入ると思われるので、その点、私がどう生きるかは私の問題ですが、トランスジェンダー×同性愛者の問題はもっと知られた方が良いと思っているので最初に取り上げました。

桜が咲いていましたが、雨で少し散っています。
季節はこれから進んでいくでしょう。

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