迷いと信じること
こんばんは。#躁鬱人日記のネキです。
僕には私淑しているだけですが、何人か師匠がいます。
だけど、正しいと分かっているのに身体が、心がついて行かない。そんな経験をしたことはありますか?
結局は、どんな考えであれ信じなければ何もできません。これは自分の考えだ!と声高に叫んでも、それは既出の考えです。人類の叡智を甘く見てはいけません。
ただ、スポットライトを浴びてこなかった思考、哲学もあるでしょう。
僕は無知で教養もないですが、根本の哲学を発展させる必要性を感じます。
難しいのは曲解しないようにすることです。
これまでの歴史では根本の哲学を、自分流にアレンジして、別のものにしてしまい、それが広がった結果が今の争いの絶えない社会の原因のひとつではないかと思います。
書いていると自分の知性のなさが露呈して恥ずかしいですが、書いていくことで磨かれもしていくでしょう。
信じてきた師匠と価値観を揺るがす師匠の狭間で僕は揺れています。
理性と知性と惰性と感情と本能が入り混じって色が定まらない。
非躁鬱人なら今頃綺麗な色を発しているでしょうが、躁鬱人の僕は拗らせて濁ってしまった。
こんなアウトローな僕が生きる道は王道ではないと思う。だけどそれを認めたくないというか、それでいいのかがわからない。
信じるというのは難しい。既存の正しさでは窮屈になってしまう。
こんなジレンマ、真っ直ぐ純粋に生きられる人には分からないだろう。
少なくとも、ここに来る人たちは生きづらさを抱えていると思うが、人生は長い。
やはり持続可能な道は王道なのかもしれない。
だが、躁鬱人に生まれてきた以上、道なき我が道を歩むべきなのだと思う。
決めるのは自分だが、賭けに出る勇気が出ない。
しかし、このままダラダラと生きていくよりはリスクを背負ってでも勝負しにいきたい自分もいる。
自分一人だけの人生ならいいのに、とも思う。それは単に自立できていないだけなのだろうが、老いゆく親を放ってもおけない。
まだ未来はある。決めるのも修正していくのもこれからだ。