オノマトペ・ライム・ライム・ライム
雪の積もる音ってどんな音だと思う?
書き出しはこうだ。彼女は決まって、僕が何かを考えこむたびにそんな唐突でくだらない問いかけをしてきたから。その都度、僕は彼女が満足するこたえを与えてやらなければならなかったのだけれど、これが存外むずかしい。僕は一度だって、彼女が「そのとおりだわ」と喜ぶ姿を拝めたことはなかった。僕がうんと首をひねってひねってひねり出した言葉の次に、いつでも彼女は「わたしはそうは思わないわ」といじわるげな顔をして言うのだ。
「しんしんとか、そういうのじゃないのかい。あるいは、こんこんとか」
「あら、わたしはそうは思わないわ」
嗚呼ほら、またこうだ!では、きみの聴いている雪が積もる音は、いったいどんなふうなのか、それを是非ともきかせてほしいんだ。
「そうね、むうむうとか、あと、ほかにはキンキンでも」
なんだそれ!ちっともわからない、彼女だけの感性によるその言葉!
彼女は「普通」とはかけ離れた擬音を毎度ご丁寧に、大真面目に提示してくる。それは到底納得いくものではないのに、不思議といつだってしっくりと来て、僕はどうにも言い返せなかった。正直なところ、僕は彼女のそういうところを気に入っていたし、あえて言うなら憧れてすらいたのだ。彼女ほどうつくしい音を聴けるひとはきっとこの世に他にいないだろう、そう間違うことなく宣言できた。僕の筆に誓ったってよかったほどに! そしてそれをこの世界に書き留める役割を持つものは、きっとこの世に僕一人だけだった。
*
むうむうとつもるきみだけのしらゆき
とけてなくなるおとをおしえて
*
海の見えるその町に、そのひとは暮らしていた。夏は暑くて冬は寒い、全然、過ごし易いとは言えない町。港町で、風はべたついて潮のにおいがする町。その町の片隅、隅も隅もそのまた隅、そのあたりに彼女のすみかはあって、そこで大抵、ひとりで本を読むか、お手玉やあやとりといった遊びを、彼女はひとり、誰かに言い訳するみたいにしていた。そこに僕が訪れるようになったのは、あの夏や秋や冬や春が何巡かしてからのことで、それまで彼女はひとりぼっちだった。暗くてひだまりのたまる、つんとした部屋で、彼女はひとりだったのだ。
ある日僕が彼女を訪ねると、彼女はドアを開くなりこう言った。
「ねえ、あなたはジュール・ヴェルヌをどう思う? 二万海里もの深い海をゆくあのノーチラスやうつくしいサロンときたら! わたし、なんどもなんども読みかえしているわ。世界のいろんなすてきなものを集めて、コレクションしてみるっていうのは、どんな心地かしらね」
そんなことができたなら。もちろん、その中にはきっとあなたを入れてあげるわ。そう目を輝かせた彼女は、あまいメープルシロップみたいな瞳でこちらを見つめた。やわらかな風が窓から吹いて、細い髪の毛が光を透いてきんいろに光る。
「それで、わたしってばすっかり彼のファンになってしまって、彼の書いた他のおはなしをもっともっと読みたいって思ったんだわ。でもね、ここにはざんねんなのだけど、海底二万海里しかないみたいなの。おばさんたちにどうか本屋さんで買ってきてちょうだいと頼んでも、ダメだっていうのよ。これってあんまりだわ、だって、きっととてもおもしろいおはなしなんだもの!」
ふくれる彼女が不憫で、なんとかしてやりたいし、なんとかしてやれる方法も思いつく。それでもそれができなかったとき、彼女を悲しませてはいけないと、諌めるように声をかけた。なるべく、説教臭くはならないように。だって希望は、持つほど悲しい。
「おばさんたちだって、悪気があったわけじゃないだろう? それに、読んでみたら案外面白くないかもしれない。期待をいっぱいして、それが外れた方がもっとずっと悲しいもんだぜ、だから機嫌を直してくれよ」
そう言うと、彼女は信じられないものでも見るような目で、いや、実際信じられないものを見る目で見つめ、叫ぶように、しかし小声で僕を非難した。
「まあ、まあ、まあ! あなたはいつもしたり顔だし、確かにわたしのことをよくわかってくれているけれど、今回ばかりはぜんぜんダメね! 期待はずれだってなんだって、つまるつまらないはどうだっていいのよ、読んだということが重要なのよ、わたしは食べられなかったぶどうを酸っぱいと言うようなキツネではないんだわ!」
そう言い切ると、彼女はそのじっとりとした目をそのままに、僕からいきおいよく、そっぽを向いてしまった。硬く古いベッドのスプリングが悲鳴を上げる。
正直、これには弱った。それはそうだ、経験ほどの宝はなかなかない。読まずにつまらないだろうと悔し紛れに断じることは、読んでみたけれどつまらなかったという思い出に勝ることはないのだから。それが生きてきた今までのほとんどを、この部屋で過ごした彼女にとってどんな意味を持つのか、僕はぜんぜん、分かっていなかった。彼女がこうして僕にわがままを言うことの意味を、ちっとも理解できていなかった。
春先のまだ少しばかりつめたさを残した風が、部屋を満たす。凪いだ空気に沈黙が落ちて、彼女の声がしない部屋はあまりにも重たく寂しい。僕の失言、僕のせいなのに、いや、僕のせいだから、彼女になんと声をかければいいのか、わからなかった。
「ねえ……、ページをめくる音ってどんなかしら?」
突然、布団のカタマリの内側から、彼女のこどもらしく高い、甘くかすれた声がした。
「……あー、ペラペラ、ううん、パラパラとかだろうか」
また彼女に気を使わせてしまった、と思う。
「本のにおいを胸いっぱいにすいこむ音は?」
「すぅーっ、とか、そんなところかな」
まだまだちいさいのに頭の良い彼女は、からだばかり大人になって人付き合いやまっとうな生き方なんてちっともできない僕のことを、いつも気遣ってくれる。
「じゃあ、本にしおりをはさむ音」
「すっ、とか、さっ、とか?」
本当に情けなくて、自分が嫌になる。彼女はきっと、何にも考えずに僕という大人にむくれて甘えていいはずなのに。それでもそんな彼女との付き合いが僕をやさしくしてくれているのもずっと確かなことで、全然いつも、あの少女に気を使わせてばかりなのだ。
「いいえ、いいえ、いいえ!」
突然振り向いて、彼女が叫ぶ。くるくる輝くメープルシロップの瞳で、彼女はこちらを見つめた。
「ねぇ、わたしはそうは思わないわ!」
「ページをめくる音は?」
「しゅむしゅむだわ、ええ!」
「本の匂いを胸いっぱいに吸い込む音」
「むあーん!」
「しおりをはさむ音!」
「さわっ!」
なんだかおかしくなって、顔を見合わせて笑う。僕の笑い声と、彼女のころころした笑い声が重なって部屋中に響いた。ああ、君の前に僕はいつだって無力だ。君が今よりもっとずっとちいさな女の子だって、あるいは大人の立派なレディだったって、絶対僕は君に、かないやしないな。だって君は、こんなに綺麗で、こんなに大切だ。盛大に笑って、そのうち笑いすぎて彼女がむせて咳込んだところで、「おばさん」がすっ飛んできて怒られた。何千何百回と見た彼女の介抱されるさまを、苦しそうな顔でそれでも未来への希望を忘れぬように生きる人の姿を、僕は精一杯覚えていたいなと思う。彼女の見ているこの窮屈でうつくしい世界のことを、僕だけが、僕と、許されるなら君のために、書き留めておきたいんだ。
うん、僕は君のために、きっとヴェルヌを買ってくるとも。まずはなにがいいかな。十五少年漂流記なんてどうかしら。ね、これはきっと「おばさん」にも言わないひみつだぜ。
*
きみのためだけにヴェルヌをつれてくる
きっとやくそく それまでサロンで
*
竜川町立 竜川病院 三〇一号室
浪川こなつ 様
ことしも秋がやってきましたね。こちらではまだまだカエデは緑のままですが、そちらの窓から見える木はもうきっとだいぶ赤くなってきたのではないでしょうか。そちらを出るまえにも言ったとおり、ぼくは、仕事のつごうで東京の町に来ています。いろいろなお店がならんでいて、とてもきれいなところです。いつかこなつさんもいっしょに見に来ましょうね。せっかくなのでぼくは、東京のとてもおおきくてきれいな本やさんで、とくべつなそうてい(本の見た目のことです)のされたヴェルヌの本をこなつさんに何冊かみつくろっていきます。たのしみにしていてください。
ついしん、しらない町にはじめて来たときの音は? ぼくがそちらにかえるまでに、かんがえておいていただけるとうれしいです。
宇山冬樹
*
「ね、ね、お手紙へのへんじだわ! あたらしい町に来たときの音!」
病室の引き戸を開けるなり、こなつさんはそう言った。ずいぶん今日は調子がいいのか、それともわくわくで痛みを忘れているのかどちらだろうと考えて、おそらく後者だろうなと考える。うぬぼれた考えだとは思うものの、今日は手土産もあるし、この浮かれようはなんとなく想像がついてもいた。今にもとびはねそうな彼女の傍らに、浅く腰掛ける。
「うん、うんうん、どんな音なのか聞かせてよ、こなつさん」
「ええ、ええ! それはね、きっとしゅわわぁーん、だわ! わたしはあいにく、あたらしい町に行くっていうのは、ここにうつってきたときしかないのだけれど、そうね、きっとそのときだってそんな音がしていたんだわ」
言い終えると、先ほどまでのメープルシロップみたいな輝きは消え失せた、どこか悲しげな瞳をして、こなつさんは窓の外を見つめた。きっと、ここに来た理由を思い出しているんだろう。いつだって彼女が頭の隅に追いやって、出来ることなら考えないようにしている事実の数々を。それは絶対、どうあがいても逃げようのない悲しみだ。
「今日もいい音を教えてくれてありがとう、こなつさん。ね、お土産があるっていう話、忘れてないかい。きっと喜んでもらえると思うんだけど」
そう言いながら、重たい紙袋をベッドの上に持ち上げて、その中身を取り出す。店員さんに頼んで、宇宙や、あの深海のような包装紙に包んでもらった本の数々。青くて深くて、つるつるとした四角いそれが、清潔な布団の波の中に沈んだ。
「あら、あら、まあ! ええ、忘れてなんかいないわ、あなたが今日ここに入ってくるまでどれほどわくわくしたものかしら! ね、ね、はやく見せてちょうだい、きっと重たいんでしょうねえ、わたしのうででたえられるかしらね」
まだすこし涙の混じるような声で、彼女はつとめて明るく、しかしそのうれしさ自体は嘘偽りなく、僕の方に向き直った。重い本を彼女の膝の上に乗せると、その包装に、とまどうような手つきで彼女はとりかかった。まるでもうその紙自体が贈り物みたいに、丁寧に、丁寧に、ゆで卵の殻を剥くみたいに、セロテープを紙からゆっくりはがしていく。僕の半分もないような細い腕で、重い冒険譚をかすかに震わせながら慎重に。
「わあ、すごいわ、重たいわ! 図書館にある本のどれよりもきっと! いちばん重たくて、いちばんすてきだわ!」
高く上ずった声で、彼女は叫んだ。筆致をなぞるように、深い海色の表紙を愛おしそうに。
「喜んでもらえてうれしいよ。ね、これを買った本屋さんにはもっとすごい本だってきっといっぱいあったぜ。だから、きっといつか、こなつさんが大人になって、僕がいまよりずっとおじいさんになったなら、一緒に見に行こう、ね」
そう僕が言うと、彼女はどこかうつむくように笑って、ええ、とだけ言った。その陰りはきっと、彼女のいのちに蔓延るゆるやかな諦めだった。それでも僕は、君に明日の話をし続ける。君がいつか、ハイ・ヒールの似合う素敵なひとになったとき。いつか、背中の曲がったおばあさんになったとき。少しでも明日を夢見て眠れるように。指切りのない約束を、どうか僕が叶えられるように。
君の未来は、今見えている現実なんかよりもずっと、うつくしくて、しゅわわんとした、綺麗なもののはずだから。
*
みちゆきにいまよりもっとうつくしい
音があふれてゆくことをねがう
*
汗をかいたグラスの氷が、軽やかな音を立てて底に沈んだ。数十分前に頼んだアイスコーヒーは、とけだした氷のせいでもうほとんど薄まっている。室内灯が黒い液体を照らして、机上に柔らかな光を落としていた。
「……病院に取材、ですか?」
「そうですそうです。ボクの知り合いの地元で竜川ってとこがあるんですけどね、水と空気の綺麗なところなんですよ。まあだからかわからないですけど、そこの病院は結構、何? 終末期医療とか受けてるような患者さんが多いらしくてですね……。そういうのも、いい刺激になるんじゃないですか」
ウヤマさん、いい話が書けないって言ってたでしょう。続けてそこまで言い切ると、担当──境さん──はとっくに湯気の立たなくなったホットコーヒーを一息に飲み干した。要はなかなかプロットすら上げてこない僕に対する催促と仕事の斡旋なのだけど、正直、あまり受けたくないなと思った。こうして境さんと話すのだって憂鬱なのに、知らない人、ましてやそういう、なんというか、デリケートな人たちに取材するなんていうのは気が乗らなかった。仕事を選べるような立場ではないというのは、分かっているのだけど。
「まあ土曜日までにやるかやらないか、教えていただければ大丈夫なので」
ウヤマさんの良くないところはそういう消極的なところですよ。そう言うと、境さんは席を立った。また連絡ください。投げやりに声を交わして、それでその日の打ち合わせは終わった。
新幹線と電車を乗り継いで数時間。さらにバスを乗り継いで数十分。人のまばらな車内からは、きらめく海と緑に萌える山が見えた。窓から入り込んでくる風には、かすかに潮の香りがする。
結局、僕は竜川町に来ていた。別に、さして行きたいと思ったわけでもなかった。美しい自然にも興味はない。人と話さなければいけないことは相変わらず嫌だったし、何か粗相をして取材相手を怒らせてしまったらどうしようと思った。けど、それ以上になにかそこへ行かなければならないという、ある種の強迫観念のような、予感めいた実感があったのだ。だから僕はここへ来た。何かを見つけるために、僕はここにいた。
「次はー、竜川病院前ぇー、竜川病院前ぇー」
バスの古びたスピーカーが到着を告げる。軋むタラップを踏みしめて、バスを降りる。土と水の匂いと、蝉の鳴く声。全身に夏を感じて、めまいがするような心地がした。夕立の匂いはすぐそこに迫っていて、帰りは雨かと憂鬱に思う。まぶしいほど白い病院の壁に一つ、蝉の抜け殻が止まっていた。
受付で手続きを済ませて、院内を散策する。不気味なほど清潔な室内には、消毒液と木材のつんとした臭いが漂っていた。廊下は明るいはずなのに、不思議とどこか鈍重な雰囲気が充満している。病室の一つ一つ、重そうな金属製の引き戸は閉められていて、扉の真ん中に取り付けられた縦の長い長方形のガラス窓からは、ほのかに室内の明かりが漏れていた。建物中に、独特の諦念が満ちている。
なにかを拒むように閉め切られた扉の群れの中に、一部屋だけ、ドアの開け放たれた部屋があった。その部屋は三階のフロアの一番端、角部屋の位置にあって、開かれたドアからは湿った熱気と人工的な冷気が漏れてきていることから、窓も開けているのだろうという事が分かった。この暑い日に、この病院に入院するような患者がドアも窓も開けっぱなし。違和感がして、その場に立ち止まる。ネームプレートには「なみかわこなつ」となかなか達筆な字で書かれていた。相当前に書かれたものなのか、紙は日に焼けてうっすら黄ばんでいる。じっと眺めていると、部屋の中から高く甘い、そしてかすれたこどもの声がした。
「ねえ、そこにいるのはだれかしら。ひょっとすると新しいカンゴシさん? 暇ならどうか、わたしのはなしあいてになってほしいのだわ」
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あのなつのなかにとびらはひらかれて/
ふゆはあしたをつれやってきた
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ふゆきは、ある日わたしの人生にあらわれた、ノーチラスみたいなひとです。わたしの何倍もあるようなおおきな体で、わたしはじぶんよりしんちょうの高いひとって、おとうさんとおかあさんと、あとびょういんのカンゴシのおばさんとか、おいしゃさんとか、とにかくそんなに見たことがなかったから、ちょっとびっくりしたんだわ。
ずっとこのびょういんですごしてきたわたしの、くらくてあらい海みたいな生活に、ふゆきはとつぜんあらわれて、そのめくるめくぼうけんみたいな、わくわくする世界をおしえてくれました。もちろん、ふゆきとすごした日々は、けっしてすべてがたのしいことばかりではありませんでした。ノーチラスがあの大ダコとたたかったように、ほかのお船とたたかったように、むずかしいこと、こわいことがたくさんあったのだわ。
とくにふゆきは、あんまりひととはなすのがトクイじゃない、ってじぶんでいつもいっているけれど、ほんとうにそのとおりで、あんまりデリカシイがないので、わたしが気をつかってあげることもたくさんあります。それに「レディに気をつかわせるなんて、ふゆきはきっともてないのね」って言ったら、なんだかしょんぼりして、そのあと頭をなでてきました。そんなんじゃごまかされないわ。
でも、ふゆきに気をつかうのは、ほかの大人に気をつかうのとちがって、ぜんぜん、きらいじゃありません。ふゆきは、わたしが「かわいそう」って言いながらわらったりしないし、わたしのおねがいをいつだってしんけんにきいて、ことわるときはしんけんにことわってくれるからです。
それによく、ふゆきはわたしにみらいのはなしをしてくれます。みんなわたしにむかってらい年のはなしをしてくれないのに、ふゆきはわたしが大人になったときのはなしをしてくれます。このあいだも、わたしが大人になって、ふゆきがうんとおじいさんになったころに、東京のおっきな本やさんにいっしょに行こう、って言ってくれました。あいにくそんなに生きていられるじしんがなかったから、ゆびきりはできなかったけど、でも、すごくうれしかったです。ふゆきが言ってくれることは、なんでもかなってしまいそうなきがします。
ふゆきがいてくれて、よかったなあとおもいます。
ふゆきがいてくれると、わたしはもうすこしおくすりのんでもいいかな、とおもいます。
ふゆきがあしたも、びょういんにきてくれたらいいな。
十一月 二十六日 こなつ
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ふゆとなつ、あしたもきせつがつづくから
まだしらない日をともにすごそう