私の大陸浪人時代~シンさんの思い出②
~前回までのあらすじ~
上海の旅行会社に「就職」した私は日本語が流暢な四川省出身のシンさんというおばさんとコンビを組んで日本人向けに「中国人家庭へのホームステイ」プランを売り込む事になった!
今考えるとすべてが荒唐無稽なのだが、
一つには私が若かった事(シンさんは若くはなかったはずだが(笑))、
もう一つには、今はどうかしらないが、その当時の上海周辺はけっこういろいろな面で緩く、子供っぽい挑戦でも許容されるような空気感が確かにあった事。それらを勘案してこれからの話を聞いて頂きたい。
シンさんという人を思い出すとき、あの時の彼女より今の私がおそらく年上だからかもしれないが、あの当時とは違った印象として彼女が心の中でよみがえってくる。
「良い人」にはおそらくお金儲けは向いていないと思うし、「良い人」というのは基本的に興味のベクトルが「利益」とか「お金」とかに向いていない。だから、もともと存在したかどうかも怪しいお金儲けのセンスは磨かれないし、本人にもそういう意思・意欲はわかないのだろう。シンさんはその点で「良い人」だった。
良い人だから、「一緒に考えましょうよ!」と発破をかければ「そうね!考えましょう!」って、付いてきてくれるのだが、やはりその優しい忠誠心と共感はビジネスという面では残念な結果に終わる事が多かった。結論を先に言ってしまった(笑)
そう。私たちは失敗した。でも、とても頑張った。
結果的には残念な結果になったのだが、あの時一緒に上海の街を這いずり回るようにしていた時の風景の一枚一枚が今、ルーベンスやブリューゲルの名画のように記憶の中で輝いているから、お金にはならなかったけど、意味はあったし価値のあった経験だったのだ。
何をやったかというと、日本企業の事務所が入っているビルディングを一つ一つ攻めていった。外資には特別な区域が用意されていて、外国人居住区も近隣に整備されたりしていて、いわゆるローカルな上海とはまったく異質な区域にそういったビルディングは屹立している。これは00年代初頭の話で、当時は特に露骨だった。数年前に上海を訪れた時は、当時の外資区域が街全体に広がったようで、ずいぶんこぎれいな風景が広がるようになったものだと驚いた。
当時、私とシンさんの目には、それらのビルディングや区域一体、そこで働く人たち、それらが天上世界で遊ぶ天人たちのように映ったのは間違いない。例えば私が住んでいたアパートは、文章で書くのも汚らわしいくらい、想像を絶するほどの汚い絶望的な牢屋のような部屋で、その分家賃は安かったのだが、どういったら良いものか、ベッドに横になって寝ていると、ある種の虫がその辺を歩き回っていたりとか、たまにはもっとひどい事になったりとか、描写は控えるが、まあ、大変だった。着ている服もひどかった。近くの店で一着15元とかで買えるビニールみたいな背広をずーっと来ていた。食事は路上で売ってる肉まんとかショーロンポーとかだったので、ぴちゃぴちゃつゆとか汁とかがはねる。それを洗ってもなかなか落ちないのだがお金はないからクリーニングも出さないし新しいのも買えない。簡単に言えばかなりみすぼらしい恰好だった。
同じ日本人なのになんであいつはあんな生活してるんだ??と、たまに怪しまれる事もあった。先に書いたように、当時の上海ではまだギリギリ日本人=金持ちというイメージが残っていたのだが、なんであいつはあんなにみすぼらしいのか??(笑)
冷静に考えると、自分でもなんでだろうな?(笑)と今考えると思う。おそらく、そもそもそういう苦労的なのを求めて中国に渡ったのだし、そういう自分の姿に美学を感じていたのかもしれないなと、大人になった今、分析している。
もう一つ言えるのは、上海にいる日本人というのは基本的に仕事をするために来ている人、観光で来ている人、現地で家庭を持っている人のいずれかに大別できる。
大学を出て、ほんのわずかの貯金だけを握りしめて空手教室を開くために単身で滞在している日本人というのは、少なくとも当時は私一人だったと思う。お金持ちであるはずの日本人なのにみすぼらしかったのは、おそらくそういう背景があったからだろう。
お金もなく知識も経験もなく本当に絶望的な姿なのだが、それがむしろ誇りに思えたというのは事実で、それこそ若さの素晴らしい特権だなと思う。
さて。天上世界で遊ぶ天人のような日本人の働くオフィスのドアをみすぼらしい恰好をした私とシンさん(※シンさんはごく普通の身なり、むしろ比較的こぎれいだし香水とか美容方面の興味も持っている普通の女性。)一軒一軒ノックノックして、「ホームステイしませんか?」と声をかけていく。
シンさんに腹が立ったのはこの時。腹を立てた私も子供っぽかったけど、日本企業のドアをノックノックする時に巧妙に私の影に隠れるシンさんもかなり子供っぽかったと思う(笑) 中国人の割には気が弱い?のか、恥ずかしがり屋?なのか、ノックノックするのは私だし、プレゼンをするのも私。シンさんは私の後ろで保護者みたいな様子で「うんうん」うなづくだけ(笑)
日本人駐在員の皆さん、やさしい方もいらっしゃいましたが、基本的には門前払い。ガードマンみたいな中国人と「中へ入れろ!」「ダメだ出ていけ」と揉める事もしょっちゅう。心身ともにそれなりにしんどい作業だったのでやがて私も心の余裕を失ってしまい、険悪な雰囲気になってしまう事も何度かあった。
そうこうしていても、やはりシンさんはもう30代後半くらいでそれなりに社会経験もある人だったから、少しは自らのふがいなさを感じていたのだろう。食事をごちそうしてくれて、それで仲直りというのがお決まりのパターンだった。
シンさんは良い人だった。そして日本人が大好きで尊敬していた。それには理由があった。それは彼女が若い頃北海道で単身苦労していた時に、現地の日本人に助けてもらった事があったとか、その他、様々な恩義を見ず知らずの日本人から受けたらしく、それが彼女としては忘れがたく心に残っていて、いつか恩返しをしたい!という情熱を彼女の中で育んでいるときに、右も左もわからない赤ん坊のような日本人の私が現れたので、いまこそ!と。そういう事情が背景にあって、特に私に親切にしてくれていたらしい。
シンさんは海外が好きで外国生活を夢見る少女がそのまま年をとったような人だった。少女だから、大人の世界で生きていく方法をあんまりよくわかっていなくて、お金儲けのセンスはゼロだし、駆け引きもできない、ビジネスにはまったく向いていない人だったが、本当に親切な人であった。海外好きな心情が根本にあるので、先にも書いたが、どういう経緯かは不明だが、フランス人の男性と深い恋に落ちていた。
秋が来て、冬が来て。私たちコンビの仕事からは相変わらず何も生まれなかった。そうこうしているうちに、シンさんの恋に進展があったようで、なんと、シンさんはフランスへ移住する事になった。フランス野郎がシンさんを受け入れる覚悟を決めたようだ。
なけなしのお金を使って、最後だけは私がシンさんを虹橋空港まで見送った。泣いた。最後の別れ際にシンさんは上記した北海道での日本人の話をしてくれた。なんと悲しかったことか。
虹橋空港で手を振って見送って、それが彼女との最後の思い出となった。
帰りは寒空の中、鼻水をくちゅくちゅかみながら路線バスを乗り継ぎ乗り継ぎして家路についた。
シンさんがそうしたように、あの時受けた恩義を私も誰かに返さなくてはならない、そんな年齢になっているようだな。
仕事、がんばらなきゃな。
シンさん、ありがとう。今はフランスで楽しんでいるかい??
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