中国大陸浪人時代 ~破滅的な文学青年ダザイさんの事~
日本語サロンの話をする前に、どうしてもこの人物が私の脳裏を行ったり来たりして落ち着かない。順番を変えてまずは彼、ダザイさんの事を記そうと思う。
やせ型でひょろっと背が高く、ギョロっとした目をした日本人の青年、ダザイさん。
ようく見るとそれなりに整った顔なのだが、いつも身体の調子がわるく、顔色は不健康に薄黒くなんとなくよどんでいる。
当時、彼はおそらく27歳くらいで私より年上。日本の一流大学文学部出身で、江蘇省の某中国一流大学で外国人教授として日本文学を教えていた。経歴・肩書・立場ともに文句なし。若さも勘案すると前途も有望だ。
社会的に何者でもないところから何者かになろうと必死な私と、すでにその世界では出世コースに入っている「出来上がった人物」としてのダザイさん。着々と人生ゲームの駒を進めている彼に対して私は、嫉妬と羨望の入り混じった感情を持っていたが、交流をしているうちに、しだいにわかってきた事なのだが、彼は彼で私に同じような感情を持っていた。
彼はいわゆる「良い子」としてこれまでの人生を経てきていた。
学校での勉強もしっかりできる。「なんとなく正しい」として世間で認められているレールに従って、そのレールの上ではみ出さず、「良い子」として評価もされてきた。
ただ、大学で就職を考える頃から、そんな今までの自分の生き方に多少の疑問も持ち始めた。文学や演劇の影響が大きいようだった。
「『良い子』が文学作品の題材になった試しはない!」
彼は文学者を志していて、自分自身でもいくつか作品を書き溜めていたが、どうしても納得のいく作品に仕上がらない。それは自分自身のこれまでの生き方になにか不足があったからだと彼は推測していた。
「偉大な文学作品を生み出せるような、何か強烈な人生経験が自分には不足している!」
そんな不満から、国内での就職先のオファーを蹴って、強烈な人生経験を求めて、彼は海外行きを志した。人生経験を得る事に彼は極めて貪欲で、それは時に社会的に非常識な態度や行動にもなってあらわれた。私の目には、彼はまるで自ら破滅を求めているように見えた。
あんなに安定して将来も約束されているのに、なんであんなに非常識な事をやって自らを滅ぼそうとするのか?
社会的な安定とは程遠かった私には、「約束の地」を自ら投げ捨てるような彼の、たまに見せる破滅的な行動が理解できなかったが、彼は彼なりに悩んだ末の行動だったようだ。
ないものねだり、というのが、結局、人生なのかなと、今になって彼を思い出すと、感慨深くなる。
そんなこともあり、破天荒というか、社会的に意味のわからない私という存在が、文学者としての彼の興味を惹いたらしい。私も私で、ないものねだりというか、安定した出世コースを歩む同世代の彼がかなりうらやましい部分も確かにあったので、そんなわけでお互い足りないものをさぐりあうみたいなカタチで仲良くなれた。
彼は演劇にも凝っていて、初対面だろうがなんだろうが、気に入った人物を見ると自作した演劇の配役としてスカウトするという奇癖を持っていた。
初めて彼に会ったのは、まだ私が上海に来たばかりの頃で、とにかく寒い秋の夜だった。
凍えるような寒さの中、私と彼は上海の五角場という交差点にある小さな食堂(居酒屋という文化が当時はなかったのでこういう街にある小さな食堂が庶民の居酒屋的なポジションだった)で待ち合わせをしていた。
コートの襟を立てニット帽をかぶり眼鏡を真っ白に曇らせながらお店に入って来た顔色の悪い、ひょろ長い日本人。虚弱体質なようでブルブル震える彼は挨拶もそこそこに「酸辣湯」を注文。酸辣湯をすすりだすと眼鏡を真っ白に曇らせながら大量の汗をカキカキ。一心にすっぱからい酸辣湯を匙ですすりながら、
「どうだい、今度お芝居をつくるんだけど、どうだい、やってみないかい」
そんな初対面だった。
ダザイさんと私とではそもそも住んでいるが別世界だった。
中国の一流大学で外国人として教授をしているので、外国人教授専用居住区にある専用のマンションを用意されていた。24時間門番付き。部屋も複数あり暖房も湯舟も完備。何もなかった私の部屋とは本当に別天地だ。
彼とはよく紹興酒を飲んだ。
白酒もそうだが、不思議なことに中国の酒は身体にあったのか、私は紹興酒をいくらでも飲む事ができた。(これは現地で人間関係を広めていくうえで非常に役立った。)
彼を思い出すときに、特に印象深い場面が3つある。
■ 1 ■
一度、二人ともたんまりと酔いつぶれた際に、興に入った彼がふと「詩」を朗読しはじめて、そんな時、さすが日本文学の教授だなーと感動した事があった。
詩というのは、たしか、もはや見ている神もいない地の果てのような僻地の町のパン屋さんが、
「ボクは生きているうちに、あと何回パンを焼くのだろう!」と嘆く、そんな詩だった。
なぜ彼はそんな詩を暗唱できたのだろう?なぜパン屋が日々のルーチンを嘆く詩をその時に朗誦したのだろう?よくわからないこともある。それでも今にまで至る強い印象をこの場面が私に残したのは、それまで学問的に文学を勉強したり、演劇等で文芸を「体験」した経験もなかった私には、詩という、ある種の心を持った言葉の連なりが時宜を得ると、空間を一変させるような魔法に似た大きな不思議な「力」を発揮するのだという事が衝撃的だったからだ。
文学って素晴らしいな!と、心から感動した。文学は間違いなく人生を豊かにし、時に生きる支えともなる。心からそう感じた。この時以来、文学というものを独学でもよいから、自分なりに勉強しよと思ったし、政治家や何かの分野で一流の業績を出している人たちの「言葉」を意識して聞いてみる訓練を始めた。私にとって、人生の一つの節目となる詩の朗読だった。
■ 2 ■
別の回で改めて記すが、私はいろいろあってその後、上海から列車で4時間ほど行った僻地(当時。今ではかなり発展している)で日本語教師になったのだが、赴任したての頃、ダザイさんが遊びに来てくれた事がある。
世界の果てのようなわびしい僻地で、地平線のかなたまで続く田園に囲まれたとある学校で私は当地初の外国人教師として赴任していた。外国人、特に日本人というのが当時当地では珍しかったのでえらい歓迎ぶりだった。
ある日、私が日本人を代表して何かスピーチをせよ、みたいな催しが開かれる事になった。
何をどう話したか今では覚えていないのだが、私一人では不安もあったので、ダザイさんにも何かスピーチをしてもらう、そんな日だった。
それエピソード自体はここではあまり関係ないのだが、その日、私とダザイさんはのどかな江南の田園地帯を散歩しながら、あれこれ夢を語ったり、未来の計画を話したりしていた。
楽しい散歩。私が空手教室を開いている、これからもっとたくさん教室を広げていきたいという夢を語っていたら、ふと、
「そんな事を君は言うけれど、もしも、もしもだよ、大きな黒人の大男が君の教室に入ってきて、暴れでもしたら、その時、どうするんだい?君はそれほど背は高くないし、筋力もそんなにあるわけではない。結局、大きな相手には歯が立たないのではないか?」
ダザイさんの中の破滅的な悪魔がうずいたようで、ピュアに夢を膨らませる私に意地悪な質問を投げかけてきた。
(ユートピアの安楽に耐えられずに自らそこに地獄の炎の焚火をたきつけて突然ユートピアを破壊しよう!みたいな衝動に駆られる癖が彼にはあった。「幸福」というのも、それをそれとして受け入れる人間としての体力みたいなものが必要なのだなと、彼との交流を通して私は学んだ。人間としての体力が足りないと、目の前の幸福に気づかなかったり、幸福であるという事の幸福さに耐えられないという事態になったりする。幸福であるためにも、強くなければいけないのだと思う。)
さて。確かにダザイさんは身長が190センチくらいはあり、私は確かにそれほど大きくはない。事実を突きつけられてイラっとした私は、
「身長なんて、それほど関係ないですよ。例えばこういう技もある!」
と言って、カニばさみという、自分の両足で相手の両足を挟み込んで倒す技を彼にかけてしまった(笑)
その時のあっけにとられ、目を大きく見開いたままゆっくりと崩れ落ちていく彼の細長い身体!スローモーションのように見えたその映像!
崩れ落ちた彼の頭のすぐ下が少しのくぼみになっていて、幸い彼が頭を打つ事はなかった事。頭のすぐ横には大きな石が転がっていて、あれに頭をぶつけていたら、彼はこの大陸の僻地でどうなっていたことか、、、。
楽しい散歩は一変。しばらく彼は口をきいてくれなくなった。その後仲直りはしたものの、これは大いに反省している若き日の失敗。忘れがたいエピソードではある。
■ 3 ■
ある日ダザイさんと私は蘇州で時間を持て余していた。
夕暮れの迫る古刹の高い塔に上り、赤く染まっていく街を望みながら、紹興酒をダラダラと飲み交わしていた。一人一瓶を手にしていたから、かなりの量になっていた。
彼はその時、将来の進路について大いに悩んでいた。
上海にとどまれば、その後の出世コースに間違いはない。ほぼ安泰だ。だがそれでいいのか?文学者としての強烈な人生経験は?作品は書けるのか?
今振り返ると、その時彼は私からみると兄貴分だったが、今、こうして当時の事を振り返っている私はその時の彼よりだいぶ年上で、やはりあの時、ダザイさんも若かったのだな、と感慨深く思える。
彼の念頭には、そのまま上海に残って出世コースを歩むか?それとも香港へ行き現地企業に駐在員として職を得るか?という選択肢があったらしい。そこに当時彼が付き合っていたポーランド人の恋人の存在というものがからまって、彼としては大きな人生の岐路に立たされていたらしい。
そう。
家庭生活の設計という、現実的な話が。
青春時代の終わりが彼に近づいていた。
夕暮れ迫る蘇州の街、古刹の鐘が鳴り、大いに飲んだ彼は何かを大声で叫びだした。獣のように。言葉にならない言葉というのだろうか。
非常識といえば非常識で、周囲の現地人も驚くくらいの叫びくあいで、さすがのわたしもオロオロ。どうにかこうにか彼を落ち着かせ、水を飲ませ、イヤミさんのご実家で彼をやすませてもらった。そんな思い出も懐かしい。
そんなこんなで、イヤミさんとダザイさんの紹介をさせて頂いた。次回は話しの流れという事もあり、僻地の学校での日本人教師としての生活について記してみたい。。。
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