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Rainy Days Never Stay


⬛︎いよいよ訪れる「裁き」

 TVアニメ「進撃の巨人」には、いくつか、オリジナルである漫画版には無いセリフが含まれているらしい。「らしい」と言うのは、筆者が漫画版を読んでいないため、どのセリフが「無い」セリフなのか判別できないからだが、ともかく、そうらしい。

 シーズン6の開幕を飾る第88話「地鳴らし」における、イェーガー夫妻(ジーク・イェーガーの祖父母)のやり取りも、そのひとつのようだ。

主人公エレン・イェーガーが始祖の巨人の力を異母兄ジークを介して掌握することに成功した結果、パラディ島の三重の壁の中から幾千の超大型巨人が解き放たれた。そして、世界のあらゆる土地を踏み均すために歩み続け、ついにマーレに到達した巨人たちの足音、つまりは地響きを感じた祖父が、堅く施錠され開かないドアを何度も叩き、とうに空になった刑務所内に向けて虚しい叫びをあげ続ける。「誰もいないのか!」。明示されていないが、おそらくは愛孫ジークの所業ゆえ、彼らは収監され、そして当然のように見捨てられたのだろう。その事実を飲み込めず、未練と当惑とが入り混じった表情である祖父に対し、妻たる祖母はゆっくりと歩み寄り、彼とは逆に覚悟と諦念とが入り混じった表情で、この一言を絞り出すのだ。

「…来たのね、私たちの裁かれる日が」。

 2024年11月3日。北海道コンサドーレ札幌(以下「札幌」)が札幌ドームでセレッソ大阪に引き分けたことを知った筆者の脳裏を、このセリフがかすめた。

 祖母は、自分たちの「罪」が先祖代々、長きに亘って続いてきたものであること、換言すれば、昨日今日起こった小さな事象により背負わされたものでないある種の「原罪」であることを、疲れ切った顔に雄弁に語らせていた。同じように、札幌もまた、今シーズンの特定の試合での失敗だけで、順位表の下から2番目にいるわけではない。ここ数シーズンに亘ってゆっくりと衰退のベクトルに乗り、流れに抗うことができなかった。そして、抗うことは本当にできなかったのか…そのように考えているからだ。

 …荒唐無稽な入りとなってしまったが、本題に移る。本稿では、現時点での札幌に対する筆者のスタンスを簡潔に述べるとともに、上記した「ここ数シーズン」の前後の流れを概観し、今期の成績低迷の必然性について私見を述べていく。

 なお、以下に述べるサッカーの技術/戦術的なファクターは、いずれも客観的な指標に基づく分析ではなく、あくまで主観に基づく「感想」であり、それゆえに大いに穴のあるものであることと、筆者はSNS上で生じている札幌に関する種々の議論を追いかけていないことから、札幌ファンの間で当然に共有されている各種の事実を踏まえない、抜けのあるものかもしれないこととを、事前に申し添えておく。

⬛︎ペトロヴィッチ監督率いる札幌の分水嶺

 まず、前段にて「裁」という表現を引用しておきながら何だが、筆者は、J2降格という、かなりの確率で、しかも最速では本日にも訪れる可能性がある災禍そのものを批判する気は毛頭ない。

 選手たちは毎試合、全力を尽くして戦っている。局面ごとに細分化されればミスは多々あるのだろうが、それも含めて総体的に見れば、全力で彼らは試合に臨んでいるはずだ。単にその「全力」の相和が、他クラブと比して小さいというだけのことだ。そして、総当たりのリーグ戦のレギュレーションの性質上、順位は必ず決まるのだ。毎年どこかは降格する。その結果自体は受け入れるしかないし、選手たちも、それを恥じる必要はない。もちろん、クラブ経営面ではさからぬマイナスが生じるのだろうが、それは本稿のテーマではない。

 筆者が問題視するのは、上段では濁した「ここ数シーズン」から始まったチーム力の緩慢な衰退〜過激な言い方をするならば「経年劣化」〜を放置するかのような、クラブ側のマネジメントである。尤も、クラブの営業上の功績(先期の札幌は、周知の通りパートナー数およびグッズ売上において過去最高値を叩き出しており、今期にいたっては、北海道電力社とのパートナー契約締結というクラブ史に残る出来事もあった)を否定する意図は全くない。筆者が提起したいのは、あくまで「強化」に関する問題だ。私見では「ここ数シーズン」の始まりは2022年である。理由は2つある。

●「チャナティップ仕様」がもたらした硬直化

 まず1点目。このシーズンの開幕前、それも年が明けてのち、チームの主軸であったチャナティップが、川崎フロンターレに電撃的に移籍した。経緯の詳細は周知なので省くが、このディールが現場に与えた影響は言うまでもなく大きかった。21年までのチームは〜もとよりそのような意図で設計されたわけではないにせよ〜チャナティップのために最適化されたチームだったからだ。

 4−1−5という特徴的な布陣を敷き、GKを交えた最後方でのパスワークによって敵のプレッシングを誘引し、その背後の広大なスペースを「ショートカット」することで、前線で待ち構えるアタッカーに優位な状況を提供すること〜18年から札幌を率いるミハイロ・ペトロヴィッチ監督の手法は、大雑把にまとめるとそのような指向性を有している。ただ、札幌は、彼が過去に率いたクラブのように、ミドルゾーンから最前線への一発のパスにより前述の「ショートカット」を実現しうる駒を有していなかった。キックの質については福森晃斗が最適だが、彼に360°の視野が求められるこのポジションの適性がなかったことから、宮澤裕樹をより後方からのパス出し役に据えざるを得なかったのだ。代替案のひとつは、荒野拓馬や駒井善成ら、ショートスプリントを継続できるタフネスを持つ選手によりサイドへのサポートを物理的に速くすることで、ショートパスの循環を速くすること。もうひとつは、前線から降りてきてボールを引き取ったチャナティップのドリブルによる直接的な「ショートカット」である。

 19年シーズン第2節、埼玉スタジアムでの浦和戦のように、チャナティップを中央のフリーマンとして起用する策がどハマりする試合は散見されていた。ボールを足元に吸着する能力、ターンからドリブルを開始するまでのスムーズさ、そしていざドリブルを開始してからの圧倒的なスピード。チャナティップのクオリティは群を抜いており、それゆえにチームは必然的に、彼への依存度を高めていく。これ自体は致し方ない。ジネディーヌ・ジダンやフアン・ロマン・リケルメがいるならば使わない手はない、というのと同じことだ。ただ、彼が降りてこなければ、ボールを敵のハイプレスの網から外に出せなくなっていくことで、彼はなし崩し的に、アタッカーでなく「ボランチ」になっていった。このことが、彼のキャリアにおいてポジティブだったのかどうかは、見解が分かれるところだろう。「ボランチ」になる必要がなくなったからかどうかは判断できかねるが、川崎に移籍して以降の彼は、左のハーフスペースでカットインからサイドチェンジを繰り返す駒でしか無いように見えたものだ。

 彼の退団以降のチームは、前進手段の確立に明らかに苦慮していた。興梠慎三(偉大なキャリアに拍手を贈りたい)の序盤の負傷による出遅れと、シャビエルのフィット遅れで勝点獲得ペースが上がらなかった22年、その2名さえも失うことでボールの落ち着きどころ自体を喪失し、後方の発射台から送られたボール(皮肉にも、田中駿汰の成熟と岡村大八の成長により、これの質は高かった)が迅速に後方に戻ってくるようになってしまった23年。チャナティップのボール吸着力と爆速を、個人レベルでコピーできる選手はまず見つからない。小柏剛のコンディションが良い時期に、瞬間風速的にボールの廻りが良くなることが救いだった。

 そして、この時期は、折しも、各クラブが所謂「ポジショナルプレイ」の流行により、個人への依存度が低い再現性のあるビルドアップ手法の確立に(出来は別にして)前向きに取り組んでいた時期でもあった。チャナティップの能力に「味をしめ」てしまい、後方の各選手の立ち位置を調節する仕組みを作ることを怠っていた札幌は、その彼を失うことで、従来、長けているというイメージを持たれていたビルドアップでの相対的な優位を一気に失った。いわば「アリとキリギリス」の寓話におけるキリギリスに、札幌はなってしまったのではないか。

●「旗印」でも「武器」にはならなかった「マンツーマン」

 そして、このように急激に低下していった攻撃力に対して、守備時のリスキーさは保存されたままであり、むしろ敵に研究されるぶん相対的にはどんどん弱体化していった。

 20年から導入された「オールコート・マンツーマンディフェンス」という手法の導入そのものは画期的だった。極めて受動的であり、それゆえに苛立ちを誘う札幌の非保持時のあり方について、方向性を明確にしたからだ。少なくとも、敵のセントラルMFの自由をどのように規制するか…という、プレッシングの一丁目一番地における迷いの排除は重要だ。その役を担い、溌剌とマンハントに勤しむ荒野や駒井、元より対人能力の高さが異質だった高嶺朋樹らはもちろんのこと、金子拓郎や田中といった、一見、この手法に適性の薄そうなメンバーもまた、この「ブラック労働」を伴う手法によって走力と対人能力を鍛えられ、価値のある選手になっていく。同サイドで鈍足の選手と組んでいた菅大輝の知性的なマルチタスクぶりも、フィールド全体がカオティックになりがちな手法の中でこそ輝く性質と言えるかもしれない。そして岡村は、リーグ屈指のプレデターぶりを全国に知らしめる(おそらく、来期は違う色のユニフォームを着ていることだろう。飛躍を期待する)。理不尽な労働を潜り抜けることで、選手個々の能力は鍛えられた。ポジティブな側面はあったし、今もその残滓はある。

 しかし、どうしても困難なのは、組織としてこれを効率的に運用し、ゴール前の堅牢性に再現性を伴わせることだった。

 定めたターゲットを捕捉して追いかけることを優先するのか、スペースを埋めることを優先するのか。当然だが、敵陣での所謂ハイプレスでは前者の、自軍ゴール前では後者のウェイトがより大きくなる。そして、失点に直結する自軍ゴール前において、その「ウェイト」のグラデーションぶりが個々人で異なっており、明確な指針が示されていない印象が付き纏った。換言すれば、皆が皆、アドリブで対応しているように見えるのだ。今夏加入した大崎玲央が激賞されている背景には、この、本来は好ましからざるカオスの蔓延があると思う。大崎自身は、敵のアタッカーが使いたいスペースを先行で埋めておき、彼に仕事を諦めさせたあとでマークを捕捉に出ていく、といった工夫を器用に、しかも継続して行える素晴らしい選手だが、彼がそのアドリブ力の高さゆえに際立つという現象そのものは、歓迎されるものではない。

 本来、この「オール…」の遂行に際して、細かな原則を設定および提示し、選手の頭の中を整理する仕事を担うのは、他ならぬ指揮官であるはずだ。ところが、極めて主観的な印象を述べると、このカオスぶりは20年以降概ね一定水準で保存されているように映る。20年はまだ、シーズンを通して「オール…」を実践していたわけではないというエクスキューズがあった。ところが、21年を終えた段階でも、やはり、カオスはカオスのままだったのだ。ゆえに、筆者は、この点でのペトロヴィッチ監督の能力に強い疑問を抱いている。

 長くなったが、これが、21年シーズンと22年シーズンの間を分水嶺とする理由の2点目となる。

⬛︎︎止まない雨はない。来期は札幌の新たな夜明け

 改めて簡潔にまとめると、ペトロヴィッチ監督麾下の札幌は、攻守両面において、21年にピークを迎えており、それ以降、必然的な衰退期に入ったというのが筆者の見解だ。

 華麗なパスワークを伴うアタックは、チームに初期から在籍していた選手たちに最適化されることによって硬直化し、新加入選手による底上げをむしろ妨げた(もちろん、新加入選手のクオリティに問題があったという見方も可能である)。そして、あるレベルまではチーム力を引き上げた「オール…」そのものに欠陥があるわけではもちろんない。サンプル数は少ないとはいえ、マン・オリエンテッドな守備手法を実装して結果を出しているクラブは存在するからだ。しかし、札幌において、その運用レベルは高くなかった。現実的に勝点を伸ばすためにはより効率的な運用が求められたわけで、踏み込んだ言い方をすれば、札幌、およびペトロヴィッチ監督の双方にとって手に余る代物だったのだと思う。

 もちろん、1段落目の末尾で言い訳がましく述べたように、以上は全て筆者の極めて主観的な感想に過ぎない。クラブ内部の人たちは、当然、より定量的な分析に基づいて個人、およびその集合体としてのチームが向上していると判断してきたからこそ、毎シーズンをペトロヴィッチ監督に託すという判断を下してきたはずだし、ファンもそれを理解(あるいは推察)したうえで支持してきたのだろう。毎シーズン、ホーム最終戦のセレモニーはいつも祝祭的な空気で終わっていたものだ。筆者が、22年以降の今に至るまでの札幌の戦いぶりを「必然的な衰退」として批判的に解釈するのは、極めて利己的な意味合いを含む日本語で表現するならば「飽き」たからに過ぎない。賽の河原に積まれる小石の如く打ち込まれ、跳ね返される後方からのフィードに、そして、ショーン・ダイチ率いるエバートンや、マノロ・ゴンサレス率いるエスパニョールの緻密な守備組織を見慣れている目には、あまりにも無秩序に映る自軍ゴール前での振る舞いに、である。

 前段落で述べたように、筆者は降格(およびその可能性の増大)という事象そのものは問題視をしていないのだが、その背景には、とにかく現体制に終わって欲しい、という希望があることも否めない。もしJ1に残留した場合、それを功績として評価したクラブ首脳陣が、進退を明言していないペトロヴィッチ監督に続投を要請するかもしれない。筆者は、そのような選択を望まない。現監督にチームを託すことが、今以上にチームを改善するとは到底信じることができないのだ。終わらせてほしい。来期をどちらのデイヴィジョンで戦うにしろ、18年の4位フィニッシュ、19年のルヴァン杯準優勝という功績をもたらした偉大な功労者として、大きな拍手のもとに去ってもらいたい。

 別離はもっと早く、痛みの小さい時期に行っておくべきだった(その後の編成は非常に難しくなっただろうが、どうせいつかは向き合うことになる痛みである)。どういうわけか費やされた22年から24年の3年間が、彼を英雄でなく、敗残者として去らせてしまうことに繋がるとすれば、それは不幸であり、クラブの過ちである。来期をどちらのデイヴィジョンで戦うにしろ、筆者がクラブに伝えたいのはこの点だ。そしてこう問いたい。チームが既にピークを迎えているとは考えなかったのか、と。NO、と答えられればそれまでだが。

 …そんなことを考えていた今朝、このような記事が目に飛び込んできた。

 ペトロヴィッチ監督の手法では、初期段階に独自のアイディアの落とし込みが入念になされる。ゆえに初期段階での伸びしろ(単に「変化の度合い」とも言えるが)が大きく、尚且つ、その時点での在籍選手に大きな序列上のアドバンテージがある。適性のある選手たちを集められるだけの資金力のあるクラブであれば、つまり「大崎」を多数揃えられるクラブであれば、後方のリスクも小さくできるかもしれない。よって、あくまで短期であれば、札幌がそうしたように彼を敗残者にすることなく使いこなせるかもしれない。まあ、彼もいい歳だし、グラーツに帰らせてやれば…とも思ったが。

 ただ、視界は開けた。止まない雨はないのだ。光の出口は近づいている。

 あと3試合。3試合を乗り切れば、筆者にとっての、浮かない雨季が終わってくれるかもしれない(繰り返すが「上下どちらのディヴィジョンで戦うか」は関心領域の外にある)。それは希望だ。もちろん、次の時代が、今より幸せな時代になるとも限らないのだが。

 前社長の野々村・現Jリーグチェアマンなのか、現代表取締役である三上氏なのか。もちろん、彼らを含めた総体としてのクラブの判断ではあるのだろうが、彼らが始めた物語は、紆余曲折のすえ7年間続き、いよいよ終わりに近づいてきた。エレン・イェーガーは、進撃の巨人の能力を使って過去に干渉し、躊躇する父親に悪行を唆した。筆者に同じことは当然できないが、上記の誰か〜おそらく、現状では三上氏しかいないのだろうが〜が、どう、この物語の終章をまとめるのかを、注意深く見守っていきたいと思う。

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