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人生の展示 -クリスチャン・ボルタンスキー回顧展


※はてなブログより(19.3.17)


クリスチャン・ボルタンスキーの回顧展[Lifetime]を観た。

フィルムカメラの試し撮りの現像を待つあいだに国立国際美術館で時間をつぶすことを思いついて向かったので、会期中であることも作家についても、なにもかも知らないままである。

興味のわく展覧会だったらいいなと期待しながら掲示板のポスターを見てみると、まっくろな宙に黄金色に光る電球がひとつ。作家は宗教・生と死・記憶・歴史・存在と不在の痕跡というものをテーマにしている人物で、主に映像や写真を用いて作品を作っているのだと展覧会の概要にあった。すぐさまチケットを買い求める。これは、カメラで写真を撮っている人間の度肝をわしづかみするような展覧会だと思った。

 

しかし、展示の入り口付近ですこし顔をしかめることになった。すみずみまで暗くしつらえた会場には心音が大きく響きわたり、それとは別らしい音源からはときどき、鋭くてざらついた金切り声が咆哮のように聞こえてくる。

それだけならまだよかったけれど、もっとショッキングだったのが作家の初映像作品だった。音はヘッドフォンで聞けるように設置されていたのでまずは軽く映像だけを見てみた。そして目視での理解もそこそこに、おもむろにヘッドフォンを耳に当てた。包帯をあごから頭のてっぺんまで重く巻き付けた男が、廃墟の通路脇で壁を背に座りこんでいる。ずっとずっと咳をしている。男はさまざまな角度から映され、唯一のぞく口元は苦しげでだらしなく、絶えず血が溢れ、たまに飛び散る。カメラがアップからゆっくり引いていくと、辺り一面が血だらけであることを思い知る。

もうこうして書くだけでも胸が悪くなるし、思い出すとうっすら怖い。作品は1969年に作られたもので映像と音声の状態がかなり悪く、それがさらに恐怖をあおってくるのだ。入り口でさっそく、視覚と聴覚で「強烈な死」を浴びせらることになった。

最近さまざまなメディアで客観的に死をうつくしく、または変わった観点で捉えた作品に触れていたので、その映像作品に呆然としてしまった。本質的だなと思った。

いや、まだ死んでいないので果たして本質的なのかわからないし、苦痛を伴わない死も世の中にはあるけど、わたしは死ぬのが怖いしまだ死にたくない。専門家ではないからこのことについて事細かくしゃべることはできないけど、死は平等に訪れるものなので、きっとわたしのこの感覚も間違ってはいないだろう。苦しい姿と多量の血。朽ちた外観。決して個人を特定させない格好。そこに映っている要素全てが何がしかを表し、だれかの過去であり、わたしの未来である。


 しょっぱなから[Lifetime](人生)の終末のようなものを見せつけられたけれど、奥で待ち構えていた作品にはこういったうす気味悪さはあまりなかった。強いて言うなら、引き伸ばした古い写真のどれもが目と鼻と口を潰され、人間性はあっても個性は根こそぎ攫われたみたいな作品があった。そういったものも配置や表現が興味深いものが多かったので恐怖はなく、風のない海原のしずけさみたいなものを感じられた。

ほかに、オブジェも多かった。どれも材料はシンプルでそれゆえストレートで、メッセージが胸の奥にスコンと落ちてやってくる。作品には電球…光がよく使われている。光と言えばポジティブな意味合いとして捉えがちだが、それは作家にとっては、陰や闇を彫り起こすための装置なのかもしれない。あくまで想像でしかないけれど。


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わたしが回顧展でいちばん気に入った作品は「『アニミタス』シリーズ」だった。会場にはそのうち2点があり、青空の砂漠で撮影したものと、まっ白な雪原で撮影したものである。大きなスクリーンに映し出された異なる映像たちの共通点は、無数の風鈴が地面に刺した棒の先端で風にゆられていることだ。澄んだ音色が群れをなし、ときに激しく、ずっとずっと鳴っている。そしてスクリーンの前にはそれぞれ、映像と紐づけられた物(干し草や花だったり、絹地を丸めたものだったり)が端整に敷き詰められている。

「アニミタス」についてはベンチに閲覧用の作品集があり、そこで真意を知ることができた。(それをこ細かに書くのは反則なので割愛する。)「アニミタス」は、展覧会の初めのあいさつで読んだ作家のテーマが凝縮されているような作品だと思った。生と死が混在し、過去と未来が同居し、大地と空がひとところに横たわっている。そして存在が不在となるプロセスを表している。

なんでも、作品の一部である風鈴は撮影後に回収しなかったらしい。その場で風化するようにしたのだ。2014年と2017年に作られたものなので恐らくもうこの世にそれらはなく、あったとしても決して同じ姿ではなく、映像だけがこの世でただひとつの証となっている。

作品集の文章で胸をうばわれた言葉がある。夜空にまたたく星がはるか遠い過去の光であるように、この映像作品もそうであると、作家が言っていた。映像の中、風鈴が奏でる天まで届くようなうつくしい音は、同時に後世にまで残る生の明滅である。


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長居するつもりはなかったのに、気がつけばずいぶん時間が経ち、受け取り可能な時刻を大幅に過ぎて現像所に到着することになってしまった。それくらい魅力的で衝撃的な回顧展だった。なにより作家のことを知ることができてよかった。そう思ってここに書き留めておくことにしたのだけど、昨日の感動をうまい具合に言語化できていないような気がする。やっぱりこういった作業は苦手である。


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