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見えないことと死ぬこと

3月8日、祖母の一周忌にお寺参りに行った。

あの思考がとりとめもなく流れたり、急に頭のもやが消え去ったりした日がつい三ヶ月くらい前な気がして、お堂に入ったときも懐かしいという気持ちはなくて、それよりも「今日は3人で来たからやけに広いな」とか「晴れてるから明るいな」とかを考えていた。スピーカーからひたすら流れるお経が奇妙なBGMのようだった。

神社で手を合わせることはそれこそ毎年やっているけど、お寺でお釈迦さまに手を合わせたのははじめてだった。神様にどこどこのだれそれですと名乗って抱負をぺらぺらしゃべるんじゃないなら、ここでは一体何を述べればいいのかと悩んで、結局お墓参りのときと同じくご先祖にあいさつと近況報告をした。たぶんこういうことなんだろうなとひとりごちた。

でもそのあとに遺灰の前と別の仏像の前でも手を合わせることになって、もうそこでは何も考えられなかった。言うことは全部言ってしまったし。極楽で祖母を見守ってくださいなんていう意味不明なお願いじみたこともする気になれないし。きれいに合わせた両手の温度をじっと感じながら、目を開けるタイミングを見計らうしかなかった。


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姉がふたりと妹がひとりいる。上ふたりと下ふたりは年がかなり離れている。そしてわたしは下ふたりに含まれるほうなので、明るくエネルギッシュだったころの祖母を全く知らない。接したとしても、記憶の残らない幼少期に、だ。

祖母が亡くなってかなしかったけど、かなしいという単語の分しか、なかった。薄情だなと百回思った。身内を含めて周りの人間に対して感情が振り切れることがほとんどないのは元からだけど、死という場面にあってなおこうなのかと考えると、そのことに対してもなんだかかなしくなった。

くやしいとも感じた。今も感じてる。大人たちが話す明朗快活な祖母に会ってみたかった。ひどく身体を患ってもなお芯の通った、心の強いすてきな女性だったけど、ハハハと大笑いするところは見たことがない。祖母は幼いころ家に行くと座布団から立ち上がっていつも氷砂糖をくれた。おいしかった。いつもテレビがついていて昼ドラかワイドショーを観ていた。猫を飼っていて、いたるところに猫モチーフのグッズがあった。冷蔵庫はいろんな調味料が混ざった不思議な匂いが鼻についてすこし苦手だった。

晩年には1年に片手で数えられるくらいしか会わなくて、そんな毎日の中で、亡くなってしまった。

見えないということは、いないのと類義(同義とまではさすがに言えない)だなと昔から考えている。祖母のこともこれに当てはまる。

わたしの日常からすこしづつすり減っていった祖母の存在が、そのか細い延長線上で、この世からいなくなってしまった。だから祖母は亡くなる以前よりもうほとんどいなくなっていた、わたしにとっては。ほんとうに嫌な言い方で気持ちがわるいけどこれ以外にどう言えばいいかわからない。

祖母の死をみんなかなしく淋しく痛いものとして受けとめていたけど、だれよりも辛そうだったのは娘である母だった。女手一つで育てられた母は産まれてから祖母が突然亡くなるまで文字どおり傍にいた。だから母にとっては奈落のように大きく深い喪失だったと思う。目の前にずっといた、ずっと見えていた、そこに当たり前のようにいた人が永遠にいなくなったという、こと。それこそが死別というものなんだろう。

フィルムカメラは、一周忌前日の法事の日から使いはじめた。母に法事の風景を試し撮りがてら撮ってもいいかと訊ねたら、ちょうどだれかに撮ってほしかったからうれしい、と言われた。びっくりした。

そもそもフィルムカメラの写真の質感がたまらなく好きで、我慢できなくなって、メルカリで中古を漁りに漁ってこのコンパクトフィルムカメラを買った。いいスナップ写真を撮ってインスタグラムに載せようとか、それくらいしか考えてなかった。あとは来月海外旅行をするからそのときにもぜひ手軽なカメラを持って行きたいと思っていた。2年ほど前に買ったコンデジのX30は重量があるから連れて行くのがむずかしい。

そんな他愛ない事情でフィルムに手を出したら、なんだかこれって意味のあることなんじゃないかと疑ってしまうようなひと言をもらってしまった。そしてたまたますてきな写真ブログも拝見してしまって、もうどうせならブログもはじめてしまおうかと。「そんなこんな」つづきである。でも勢いは大事だよね。


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