悪意の片棒を担いでしまう善意
今回は、今世の宿題についてです。
善は良いこと、大いに励むべき。
悪はよくないこと、積極的に減らしていくべき。
そう考える人がいるとします。
一方、他人に迷惑をかけていることにすら氣づかない。
自分が被害を受けなければ何をしてもいい。
そう考える人もいることでしょう。
その違いは、個々人の魂の属性にあります。
魂の属性によって、世間でいうところの善行・悪行を実行しやすい傾向があります。
ですが、そうはいっても生まれ育った環境や教育も関係してきます。
大事なことは、その魂に合った行動をすることです。
なぜなら、それが今世の課題を果たすことに繋がっている可能性が高いからです。
言い換えれば、自分が納得していないのに、影響を受けてきた価値観に従った行動を取ってしまっていないか。
そのような、魂と生き方にズレが少ない方が望ましいと考えることもできます。
こう書くと、悪行に手を染めていく人がどんどん増えていくのではないか。
そう心配する人もいるかもしれません。
ですが、もしその人が善寄りの魂の属性なら、どこかのタイミングで良心の呵責に苛まれる時がくる。
そんな氣がしています。
一方、善行が増えることによって、どんな弊害が考えられるでしょうか?
多くの人がイメージする善人は、都合の良い人間です。
極端な言い方をすれば、悪人も許してしまう人でしょうか。
そのような人は、心が広くて良い印象だと感じることでしょう。
ですが、悪行を許したことで罰を受ける機会がなくなり、改心する機会を逃す可能性も考えられます。
悪寄りの人間は、悪行を繰り返しますし、味をしめて調子に乗る可能性があります。
すると、悪行による被害者も増えてしまう可能性もあるわけです。
甘やかす善は悪を助長する。
捉え方によっては、本人が自立できるポテンシャルがあるのに、甘やかして自立するチャンスを奪ったことで、他人に依存させる善行もなきにしもあらず。
本人が善だと思ったことが、結果的に悪になった。
なんてこもあるでしょう。
善も悪も何らかの形で影響しあっているのかもしれませんね。
だからといって、悪行をなくすことが善なのではなく、悪行をすることが今世の宿題として必要な人がいるということです。
悪行を続けることが今世の宿題に含まれている人物は、悪行を続けた結果、どこかのタイミングで捕まって命を落としても、やるべきことはやったと満足し、無事にあの世に戻る可能性があります。
この世の価値観では首を傾げる人が多いと思いますが、それはそれ、その魂は今回の人生でやるべきことを果たしたということなのでしょう。
逆に、魂は悪寄りなのに無理やり善行をさせられて納得がいかない後悔ばかりの人生を過ごした場合、今世の宿題をちっとも果たせておらず、未練が残って地縛霊化する可能性もあります。
ですから、この世の生き方に、万人に共通する答えはないということです。
強いて言うなら、今世の宿題を果たすという、不可思議でこの世の価値観では定義しがたい答えがあるくらいです。
この世の価値観にとらわれず、自分が納得でき、自分を誇れる生き方をしていきましょう。
もしもあなたが善寄りで、悪寄りの人に騙されたり搾取されていると感じてうんざりしているなら、それは人生の方向性がズレているかもしれません。
昔の私はそうでした。
今となっては、善寄りの人はこの世の価値観では損しがちではあるものの、トータルでみれば恵まれていると感じています。
私と同じように、与えること、減ることに対する執着がなくなり、与えた以上のことが返ってきていると実感できる人が増えたら嬉しく感じます。
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