競争か平等か
この世をMMORPGのゲームの世界だと想定してみましょう。
みなさん持っているアイテムやアバターやジョブやステータスなどを考慮すれば、まったく同じキャラクターはいません。
仮にMMORPGの世界で平等を実現するなら、キャラクターも持っているアイテムも全て同じになり、つまらなくなるのではないでしょうか。
やりこみ度が異なれば、レベルや持っているアイテムは異なります。
つまり、競争が自然と生じるのは言わずもがな。
ですが、競争は優劣を生み、良くないことだと認識している人間がいます。
確かに、競争によって順位が決まります。
ですが、競技において、順位という相対的なものではなく、記録に着目すると話は変わります。
過去のオリンピックの記録が塗り替えられるように、現代人である私たちは、過去の偉人たちと意図せずに競い合っています。
その結果、現代では2位以下の選手であっても、過去の選手と比べて良い記録を出している可能性があります。
このことは、現代の選手同士が競い、切磋琢磨した結果として、過去の記録を更新したと考えることができます。
つまり、競争によって人類総出で記録更新に向かい、進歩していると捉えることもできます。
一方、順位が低い人は劣っているとみなされる価値観があるようです。
ですが、テストの点数にしろ、50m走のタイムにしろ、各々が取り組んだ結果の記録が数字で表れているだけです。
そうした数字という事実に対し、劣っているだとか差別だとか、感情的な解釈を勝手にしています。
さらにいえば、個々人の価値観で変わるものです。
話を戻します。
競争した結果1位とビリが同時に存在するのは当然のことです。
記録という事実が異なるのですから。
そして、 2位以下の選手がいるから、1位の偉大さがわかります。
1人しかいない競技でどんな記録を出しても、他の選手がいなければ、すごい記録なのかはわかりません。
大事なことは、各々の選手が昨日の自分、ひいては過去の先達を越えようと日々精進することが重要なのだと思います。
今回は1位だったとしても、サボれば順位が下がるでしょう。
ビリで悔しい思いをしても、その思いを糧に練習した結果、次は1位になれる可能性があります。
そこに、平等も差別もありません。
つまるところ、人生とは自分との戦いなのです。
競技で1位を取れなくても、自己新記録を更新することは大事です。
仮に更新できなくても、更新しようと練習に励む時間が重要なのです。
望んだ結果を得られようと得られまいと、日々精進する。
そうして目の前のことに懸命に取り組むことが、魂磨きの修行なのです。
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