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身近な古墳

ーカミさん日誌ー

 秋晴れの日、近所の古墳群に出かけました。奈良に行かなきゃ古墳って見られないと思い込んでいましたが、こじんまりとしているものの地元にも古墳群がありました。(拡大して見ると全体地図が分かりやすい。↓)

整備された向山古墳群公園 by『三島のはじまり p33』三島市郷土資料館/令和3年発行



向山古墳群の発見

 昭和50年(1975年)小学校建設中に2基の円墳が発掘され、副葬品として鉄剣などが出土しました。この後、平成3年(1991年)の市道拡幅工事に伴う発掘調査により、数多くの円墳と前方後円墳が確認されました。さらに、平成16年(2004年)には、墳丘の長さ68mの大型の前方後円墳(16号墳)が発見されました。


1号墳に副葬された鉄器by『三島のはじまり p32』

 令和3年発行の資料『三島のはじまり 』によれば、この古墳群は2基の前方後円墳と14基の円墳から構成されています。時代としては3世紀半ばから6世紀後半にかけて、それぞれ築造されました。

 古墳の歴史的な意味を考えてみます。

 3世紀の半ば、奈良県にヤマト王権により全長200mの巨大な前方後円墳の箸墓古墳が築かれ、日本列島は古墳時代に入ります。箸墓古墳に見られる構造規格が、ひな形のような形で地方首長やその下の首長へと配布され、その社会的立場に応じた規模の前方後円墳が築かれていくようになりました。
 このことは、近畿地方で勢力を増すヤマト王権が、各地の首長と同盟関係を結んでいったことの反映だと考えられています。

『三島のはじまり p30、31(一部要約)』 

 前方後円墳とば鍵穴のような面白い形のお墓という認識しかありませんでしたが、ヤマト王権とのつながりがなどの社会構造も表していたのです。全く思ってもみなかったことでした。


3号墳

 駐車場の近くの3号墳に登ってみました。(地図右上A地区)唯一見た前方後円墳でしたが、約22m×12mと小さめなので分かりにくい。6世紀前半に作られたそうです。


3号墳(前方後円墳) 前方から見た墳丘


3号墳の説明書き

 ドローンでも飛ばせば、分かりやすそうですが…。

後円部に埋め込まれた陶板タイル(実物大、木の棺の穴の後)

 説明書きやタイルがないと、素人目には小さな丘にしか見えません。とはいえ、副葬品として太刀.土師器杯.高坏.甕(かめ)が出土しました。


向山古墳群公園

 静岡県の史跡指定を受け、平成24年度に古墳群公園として整備されました。1号墳から16号墳まで発掘されましたが、現在1号と2号墳は消滅しています。また、もっとも古い3世紀中ごろ築かれた16号墳(前方後円墳)は公園外となっています。

 

道の向こうにも円墳(12号墳)

 公園は車道を挟み両側に12基の円墳が並んでいます。それぞれ説明看板が建っていました。中には土を盛らず、周溝だけの円墳も一基ありました。


小高くて展望台のある14号墳

 ここの展望台は見晴らしが良く、かなり前に山の写真を撮りに来たことがあります。その時は雪景色の富士山を撮るのに夢中で、古墳の説明看板をろくに読みもしなかった記憶があります。今は植物に圧倒され遠景は望めなくなりましたが、公園内部はよく見えます。ぽつぽつと家族連れの人が散歩しています。
 16号墳については全く知らなかったので残念でした。次回のお楽しみにしましょう。

 それにしても、学校を建てる、道を拡げる、野球場を作ろうなどのきっかけから、大昔の遺跡が発見される。日本はとんでもなく歴史の長い国なんだと、改めて思いました。また、無頓着な私の理解が深まったのは、『三島のはじまり 』三島市郷土資料館の解説のおかげです。図版も利用させてもらい有難うございました。

静岡県三島市南西部の古墳地図 by『三島のはじまり p32』



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