伊勢信仰を支えた御師(おんし)+α (3/3)
岡田先生の講義を聴いているうちに、御師についてどこかで聞いた話のように思えてきました。「各家を巡りお札を配り初穂料を納めてもらう」これはかつての木地師の氏子駆や氏子狩によく似ています。
どこまで関連があるのか不明ですが、私の妄想かもしれませんが、ご参考までにご紹介します。
木地師と惟喬(これたか)親王伝説
まず木地師とは、木地屋 、轆轤師とも呼ばれ、日本各地で木の器を作っていた職人(職能)集団です。
平安時代のころから明治前まで、 全国の森を自由に移動し、樹木を伐り加工して、 鉢.盆.椀.仏具などの生活用品を作っていました。数家族からなる小集団で行動していました。 そして、明治以降は定住するようになり、各地の漆器生産の礎となっていきました。
轆轤を使った木地作りは、9世紀中頃の惟喬(これたか)親王から、その家臣や村人たちに伝えられたとされています。(この伝承により、かつての木地師は大藏姓や小椋姓がほとんどでした。)
筒井神社、大君木地祖神社
そして、惟喬親王伝説にちなんだ神社やお寺など、町内にいくつか残っています。蛭谷地区の筒井神社、君ヶ畑地区の大君木地祖(おおきみきじそ)神社などです。
筒井神社、大君木地祖神社は、木地師発祥の地に立つ神社であれば、それを生業とする木地師はそこの氏子であると考えられました。どちらの神社の氏子かを巡り神社間の勢力争いなどあったようですが、ここでは省略します。
氏子駆(うじこがけ)、氏子狩(うじこかり)
そして、全国の木地師を保護.統括するとして、支配所(役所)が蛭谷と君ヶ畑の2か所に作られました。そこから支配所役人たちは全国の木地師を回り、どちらの役所に属するかを調べました。これが「氏子駆.氏子狩」と言われるものです。氏子駆(狩)役人は巡国人と呼ばれたそうです。
木地師たちは、巡国人から初穂料だけでなく様々な名目で金銭の徴収もされました。とはいえ、氏子としての恩恵もあり、木地師たちには山の7合目以上の木を自由に伐採しても良い、という書付(免許)が与えられました。希望者には、職の縁起書や鑑札や通行手形が配布されました。
木地師にとって、書付などは仕事を保護してくれる有難いものであり、また仕事への誇りともなっていきました。惟喬親王の伝説は、自分たちの職業神として心強いものであったと思われます。
蛭谷の「氏子駆」は明治26年(1893年)まで、君ヶ畑の「氏子狩」は、明治6年(1873年)まで行われました。これら二か所の記録が、「永源寺町史 木地師編」としてまとめられました。
こうしてみると、巡国人と氏子(木地師)は、御師と檀家の関係に似たところがあるような気がします。
あとがき
先日の岡田先生の講義まで、御師という言葉を知りませんでした。けれど、そこから類推すると氏子駆(狩)だけじゃなく富山の薬売りなども似ているような気がします。根気よく各家庭を巡りながら、信頼関係を築きお互いの利益を図る。なんて構図を見てしまうのは、失礼なのでしょうか…
江戸時代の寺子屋も浮世絵も知っているのに、何百年も続いた御師は全く知られていません。埋もれた日本の歴史を、何だか発掘でもしている気分でした。素人考えなのですが、御師が社会に与えた影響は色々とありそうです。
大山信仰では御師の禁止された明治から、先導師と呼び名を変えて今も続いています。下に動画を載せるので、是非ご覧ください。動画は伊勢原歴史文化遺産活用実行委員会作で、記録編では檀家巡りをする映像もあります。
大山詣り/記録編(約30分)
大山詣り/ダイジェスト版(約8分)