交渉術 第31話
前回まで
前岡工業の千田、武井、香田、斎藤、山岸の5名は、本山自動車の技術研究所での会議に向かった。新人3人にとって初めての顧客との会議であり、特に斎藤と山岸は緊張していたが、香田は以前の訪問経験があり、多少落ち着いていた。
会議では武井が進行を務め、香田がデータ整理を担当。橋本の信頼性リスクに関する質問に香田が対応した後、千田が山岸を指名。突然の指名に驚きながらも、山岸は冷静に補足説明を行い、本山自動車の技術者たちの関心を引いた。
会議後、千田は「よくやった」と3人を労い、山岸の説明が議論の鍵となったことを指摘。新人たちは安堵しつつも、さらなる成長の必要性を感じていた。
第31話
週末、山岸明日香は電車に揺られながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。会社のある東京のアパートから実家までは電車で約一時間半。月に一度ほど帰省するのが習慣になっている。
最寄りの駅から実家まで徒歩15分、周りを見れば、商店街の店が時々入れ替わっているのを見る。街は少しづつ変化している。
やがて、オレンジ色の瓦屋根が見えてきた。父が子供の頃、祖父が建て、もう40年になる一軒家だ。
玄関を入ると実家の懐かしい香りがする。
靴を脱ぎながら「ただいま」と声をかけると、母が台所から「おかえり」と応えた。
リビングに入ると、ソファに座った父が声を掛けた。
「帰ってきたか」
「うん、久しぶり」
母もエプロンをつけたままリビングに顔を出し、「ご飯すぐだからね」と笑顔で言った。
「うん」
会話をしていると、廊下から足音が聞こえ、妹の美咲が部屋に入ってきた。
「明日姉(あすねえ)、おかえり」
「ただいま」
美咲は冷蔵庫の扉を開けると、コンビニでよく見るプリンを取り出した。
「美咲、就職活動はどう?」
美咲はプリンの蓋をペリペリ開け、ソファに座りながら、少し困ったような顔をした。
「うーん、色々見てるんだけど、どこがいいのか正直迷ってるんだよね」
「そうだよね。でも、焦らなくてもいいと思うよ。自分が納得できるところを見つけるのが大事だから」
「就職難とか言っていたが、余裕だな」 父が口を挟んだ。
「技術系は割と大丈夫」美咲が言う
「ウチの娘たちは二人ともリケジョだものね」母が言った。
「ママ、古いねえ」美咲が笑いながら言う。
「明日姉は、前岡工業はどう?」
美咲が軽い調子で尋ねる。
「研修終わってさ、先月から職場配属。 早速忙しいよ」
「へえ、大変じゃない。 ブラックとかじゃないんでしょ。大手だもんね。」
「ブラックジャないけど、夜9時とか普通にある。でも周りがサポートしてくれるから、苦じゃないよ」
「ふーん。仲間ってやつ?」
「そう。仕事って、一人で頑張るものじゃないんだなって最近思う。お客さんの前で話すのも、最初はすごく緊張したけど、先輩やチームの仲間がいてくれるから、なんとかやれてるんだよね」
美咲は「ふーん」と短く返しながら、何か考えているようだった。就職活動が控えていることもあり、仕事の話には少し敏感になっている。
父は雑誌に目を通しながら、特に会話には入ってこなかったが、娘の成長を感じて内心喜んでいた。
「今日(キョウ)ちゃんに挨拶してくるよ」
明日香はダイニングの椅子から立ち上がった。
姉の今日子は明日香の2歳上だ。
14歳の時、病気で亡くなっている。
明日香は仏壇に線香をそなえ、手を合わせた。
ふと、台所から母の声が響いた。
「二人とも、手伝って」
明日香と美咲は声をそろえて台所に向かった。
母が煮物をかき混ぜていた。
「明日香、そこに焼いてある野菜、盛り付けお願い。美咲はお皿とお箸出して」
「はいはい」
コンビネーションよく動いた。
ふとリビングに目を向けると、父が老眼鏡をかけながら、何かの資料を広げていた。家では無口であまり感情を表に出さない父だったが、その姿を見て、明日香は自分の仕事に向き合う姿勢を少し重ね合わせた。
「ねえ」
美咲がふと口を開く。「明日姉が言ってたみたいに、職場に尊敬できる人がいたら、仕事って楽しくなるのかな」
「うん、そう思う。自分が成長できる環境にいられるって、すごく大事よ」
美咲は小さく頷きながら、味噌汁の鍋に火をつけた。
「じゃあ、そういう職場を探さなきゃね」
「まあ。でも、実際に働いてみないとわからないことも多いけどね」
母は二人の会話を聞きながら微笑み、「色々悩みなさい。今だけよ」と優しく言った。
リビングの父の姿を横目に、明日香はふと、家族と自分の変化を感じ取っていた。
この話にも、交渉戦略に通づる視点で学べることがあります。
1. 交渉の基本は「信頼」と「関係性の構築」
明日香は職場での経験を通じて、「仕事は一人で頑張るものではない」と学んでいる。これは交渉においても重要な要素であり、相手との信頼関係を築くことが交渉の成功につながることを示唆している。家族との会話の中で、彼女はチームの支えがあることで仕事がうまくいっていると語っており、交渉においても「周囲のサポート」や「チームプレー」が成功を左右することを示している。
2. 「価値観の明確化」が選択肢を広げる
美咲は就職活動に迷っているが、明日香の言葉を通じて、「職場に尊敬できる人がいたら、仕事が楽しくなるのかもしれない」と考えるようになった。選択肢を整理することが重要であることを示している。本当に求めているもの(給与、働く環境、成長機会など)を明確にできれば、より良い交渉の結果につながる。
3. 交渉では「実際に経験してみないとわからないこともある」
明日香が「実際に働いてみないとわからないことも多い」と述べたように、交渉においても理論や計画だけではなく、実際に交渉の場に立つことで初めて気づくことがある。そのため、交渉戦略を考える際には、最初から完璧なプランを作るのではなく、「トライ&エラー」を前提にして柔軟に対応する姿勢が求められる。
4. 「タイミング」と「雰囲気を読む力」が交渉の成功を左右する
この物語では、家族の会話が自然な流れで進んでいる。例えば、美咲が就職の話をしたのは、リラックスした食事の準備中だった。交渉の場でも、相手が話しやすいタイミングを見極めることが重要。相手がプレッシャーを感じているときに交渉を進めるよりも、リラックスしているときの方が良い結果を得られることが多い。
一見何気ない家族の会話の中にも、交渉に活かせるヒントが多く含まれている。