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どうせ最期は、
どれだけ悩んでも、どれだけ嬉しくても、
行き着くところは誰だって同じ、「死」だ。
それは別に、人生に対する諦めでは無い。
むしろ、人生に対してポジティブになるために、有効的な考え方だと思う。
突然だが、我が母は、私が中3の時に事故で他界した。
日曜日の朝、他愛もない喧嘩をしたのが最後の会話だった。
母の職場から、「お母さん、まだ出勤してないんだけど…」という電話をとったやいなや、遠くから救急車の音が聞こえ、「…まさかね」と思ったことを今でも鮮明に覚えている。
普段厳格だった父が泣き声を殺しながら電話してきたことも、この先忘れることはないだろう。
そんなこんなで思春期真っ只中ということもあってか、「どうせ最期は死ぬ」という考えが、心の深いところに膜が張ったように薄く、でも確かに根強く住み着いた。
…まあ、「怪我すれば血が出る」並みに、当たり前と言われれば当たり前なのだが。
ただ、これを意識するのとしないとでは、生活に違いが出ると思っている。
前述の通り、この考えはあくまで、ポジティブに使う。
例えば、あることに挑戦しようか悩んでいる時。
「うまくいくかな…」「今始めて遅くないかな…」という不安が押し寄せて迷っている時に、この考え方は力を発揮すると思っている。
「どうせ最期は死ぬ訳だし、やってみるか」と。
生きていれば、誰かに馬鹿にされるのが怖かったり、人目が気になったりするものだ。
でも、そんな人間も、もちろん私も、最期は骨と灰になる。
間違いなく自我を持っている生き物の結末が、そんな手のひらに収まるような物体になるなんて、未だに不思議でたまらない。
誠実に生きようと、我儘に生きようと、
話題の本を読もうと、読まなかろうと、
英語を話せようと、話せまいと。
行く先は皆同じ。
その事実は決して変わることはない。
ならば、限りある命を、使えるだけ使ったほうが得なはずだ。
好きな人に好きだと伝え、
食べたいものを食べ、行きたいところへ行き、
見たいものを見た方がいい。
他人に諦められても、自分で自分の人生を諦めたくない。
「明日言えばいいか」「次の機会に行こう」
その明日は来るのか。次の機会までに、その場所は存在しているのか。
未来はわからないはずなのに、どうして保証できよう。
終わりが見えないからこそ、
時々、いつまでこの体は生き続けているのだろうと不思議になる。
腹が減ったら食べるし、眠くなったら寝る。
朝起きて、仕事に行って、疲れて、風呂に入って眠る。
習慣化して無意識になっているが、全て生きるために選択していることだ。
ただ、皮肉なことに、その間にも命は削れていっている。
それなのに私は、この日々を過ごす中で、一体何を成し得ているのだろうか。
命という存在が当たり前になりすぎて、「生きていること」を忘れてしまう。
明日も自分が存在していると錯覚してしまっている。
だが、本当に今、私は存在しているのだろうか?
「存在」という事実も、意外と不確実だ。
私は未だ、母との終わりに後悔している。
もしあの世があるのなら、母は今何を思っているのだろう。
まさかあの日、「今日で終わり」だなんて思ってもみなかったはずだ。
母は生前、資格の勉強をしていた。
将来は紅茶に携わる仕事がしたかったそうだ。
それが出来なくて悲しんでいないだろうか。
あまりにも唐突に亡くなったから、やりきれない気持ちになってないだろうか。
自分だったら、死んでも死にきれないはずだ。
ならば、やはり行き着くところは同じだ。
思い悩むこともある。
恋焦がれることもある。
投げ出したくなることもある。
だけど、どうせ死ぬ運命なんだ。
ならば、限りある時間を存分に贅沢に使い切ってやる。
こんなところで負けてたまるか。