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令和の「だるまさんが転んだ」に出会い、人生を考えた

「だるまさんが転んだ!」

夏日の午後のこと。散歩をしている私の耳に飛び込んできたのは、元気いっぱいな男の子の声だった。

休校によって体力を持て余している、近所の小学生だろう。
サンサンと降り注ぐ太陽の下。駐車場で3人、往年の遊びを楽しんでいた。

「今の子供も『だるまさんが転んだ』なんかするんだなぁ」と、
なんだか感激さえしてしまった。
Switchだってネットだってある時代、古の遊びなんてそれらに比べたら魅力のあるものなのだろうか。

30歳である私の世代の幼少期においても、
「だるまさんが転んだ」や「かくれんぼ」、「缶蹴り」などはレトロな遊びを追体験するという位置づけだったように思う。

いまだ現役で残ってはいるものの、
それはゲームや漫画に飽きたときの箸休めというか、たまに遊んでみると意外と楽しいね〜って感じの。

だからその世代よりはるかに、ものや通信に恵まれた今の子どもたちは、
「だるまさんが転んだ」なんて存在さえ知らないとばかり思っていた。
しかもめちゃくちゃヒートアップしている雰囲気なのが印象的だった。

思うに、
家でゲーム、ネット、漫画あたりを全て家の中で回すローテーションに飽きてしまったんだろう。

通行人Aである私はそれを立ち止まって見届けるわけにはいかないので、その後の結末なんて知らない。
だからそれが果たして、私が知っている「だるまさんが転んだ」と全く同じものなのかはわからない。

でもきっと、ソーシャルディスタンスに理解のある子なら
往年の「鬼にタッチすることで勝ち抜けられる」ルールはご法度だと気づくだろう。
そしたら特別ルールで改変して遊んでいるのだろうか。

子どもはいつだって禁止されればやりたくなるし、
大人たちの固い頭で考えられたルールの抜け穴をついたり、違う方法を駆使したりしてたくましく生きようとする。

今回に至っても、ソーシャルディスタンスという
それが「本人の命を守るためのルール」だとしても、友達と全く遊ばないのは耐えられないし
そうなれば、全力の知恵を絞ってアイディアを生み出しているのだろう。

(もっとも、私が見た男の子たちはソーシャルディスタンスなんて概念そっちのけで、ノーマルのだるまさんが転んだをしていたのかもしれないが)

私達の世代においても
小学校のころ紙ひこうきブームが起き、全校生徒に禁止令が出された。
そうなれば子どもたちはケロッとしていて、次の日には他の遊びで盛り上がっていることもある。そういうものだ。

私の想像でしかないが、きっと全国でそういうことが起きている。

不自由は時に、
考えるきっかけとエネルギーをくれる。

これは子どもに限ったことではない。

できないことがある」のは苦しいことだけれど、
与えられたルールの中でより良く過ごしていくにはどうしたらいいか考えるのは、
すんなりこなせて思考停止に陥っているより、案外楽しいものなのかもしれない。

人生は、遊びと一緒だ。
私に配られたカードは、けして万能なものではないけれど。

終わりを迎えたときに、
「は〜なんだかんだ楽しかったね」って笑えるようにはなっていたいよな。

令和の時代に息づく遊びの余韻を感じつつ、そんなことを考えた。


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