田舎という場所
比較的都会で生まれた私にとって、都会も良い場所と思うが、田舎という場所はある種憧れでもある。都会が田舎のもたない摩天楼であるとか、溢れんばかりの品々があるとしたら、田舎は都会の持たないゆっくりとした時間軸をもち、豊かさを持っていると考える。それこそ、田舎に行きる人々は時間の流れがゆっくりとした人々という印象である。無論働く人は都会と同じように時間に追われているわけだが、それが生活までズルズルと引きずっているようには感じられない。5分とか3分に1本地下鉄が来る、なんていう世界ではないということを改めて思い知らされている毎日である。むしろ、私の最寄駅は1時間に1本、多くて2本という世界である。
人と人との距離が近いというのか、情に熱いというのか。人の近さと結びつきが強いことは、その地域の強みであろう。私の家の近くの小学校は放課後や土日には公園のように開放されており、子どもたちが遊ぶ姿がよくよくみられる。名古屋では全くもって考えられないことである。もちろん、出身地である名古屋も情には熱い土地ではある。しかし、それとはまた違った熱さというのだろうか。
三島由紀夫は、「ダフニスとクロエ」という古代ギリシアの抒情的牧歌小説を底本とした、かの有名な「潮騒」の中で鳥羽市神島を訪れて取材をし、その島に住む人々と交流する中で「人情は素朴で強情で、なかなかプライドが強くて、都会を軽蔑してゐるところが気に入つた」と述べつつ、「田舎の人の都会に対する地方的劣等感に会うほどイヤなものはないが、神島にはそういうところがなかった」と述懐している。まさにこの通りであると思うし、伊勢の地に住む人々ももれなくこの通りであると思う。自分なりに解すとするのであれば「良くも悪くも職人気質」なのである。
父から伊勢へゆくとき、「ここは名古屋とは違うのだからな?」と言伝を預かっていたが、まさにその言葉の意味を噛み締めている毎日である。