無の方が良いということ

 「ないよりは…」「まぁ、あった方がいいよね。」というものはこの世には多いが、逆に「ない方がいいもの」もあると思う。
 それはホコリだ。誇りではなく塵の方のホコリだ。
 
 あるよりは無い方がいい。なくすための手段には掃除がある。ただし、掃除はほこりを0%にすることはできない。ほうきでは回収しきれないもの・掃除機でも吸いきれないものは様々だ。微細なのか、粘度なのかなんなのかわからないが、何かしら回収しきれないものがほとんどだ。
 でもホコリはない方がいいもの。

 一方で掃除とは気づかれにくいものだ。よほど毎日過ごして、場所に気をとめているような場所でなければ感知することは難しい。そういった点で掃除とは「有を無に帰すから気づかれにくい」と思う。無を有にして、それに気づくのは簡単なのだ。どろんこ遊びをしてきて綺麗な服に勲章をつけて帰ると、それは元々「無かった」ものにプラスしてどろんこが「有る」状態だから気づかれる。本棚に入って無かった本やフィギュア、ゲームソフトが入っていればこれはどうしたのかと親に聞かれる。部屋がモノで散乱していたら「汚い」と感じて現状復帰しようとする、など。でも、「モノ」の場合配置した人も見た人も気づくケースが多いが、モノで散乱していた場合や、1週間ぶりに掃除機をかけたり、窓ガラスをふいてみたりした場合、目に見える変化には気づくだろうが、床や窓なんていうのには殆どの使用者は気づかないのである。
 なんとなくいつもより綺麗、床が光って見えると感じるのは掃除者たる自分だけなのだ。
 しかし、掃除が行き届いていないと、なんとなく気持ちが落ち込み、気持ちが沈み、なんとなく陰鬱に感じることがある。換気もそうだ。二酸化炭素のたくさんあるどんよりとした空気感よりも、酸素のたくさん有る外からの風を通して入れ替えた方がシャキッとする。(感じがする)。
 そう考えると、やはりこれらのプロセスは無に帰すということなのではないだろうか。

 「無に返す」というプロセスは面倒だし、やっていると変な目で見られることも多い。だが、わたしたちのあたりまえが「無に返す」というプロセスと誰か知らない人がやってくれていることで、物心両面の衛生が担保されていることを忘れてはいけない。

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