高山樗牛と三淵忠彦
NHKの朝のドラマ「虎に翼」が最終回を迎えた。現代劇では無くて日本の近現代を扱っていることもあったし、軽い気持ちで見ていたら、役者さんたちの演技のすばらしさ、魅力的な脚本にハマり、すっかり最後まで見てしまった。しばらくロスになりそうだ。
そんななか、とても意外なところで自分の研究に繋がる話題を見つけた。初代最高裁判所長官・三淵忠彦(ドラマでは星朋彦)が、随筆のなかで「高山樗牛の言葉」というエッセイを書いていることだ。高山樗牛で探していたら三淵の名が出て来て、何で??となり、本を読んで納得した。
三淵は父親の三淵隆衡が山形の西田川郡長をしていた関係で(明治27~30年)、中学校は荘内中学に通っていたのだという。
その名前は確かに名簿にもある(職員録 明治28年1月現在 乙)。
それでそのとき、三淵忠彦は高山樗牛の弟の斎藤信策(野の人)と懇意になったのだという(二人はその後二高というコースまで共通している)。
斎藤野の人は1878年生まれで三淵が1880年生まれだから、年齢は少し違う(年譜では野の人が明治30年荘内中学校卒、私の手元にある『世間と人間』復刻版附録の年譜だと三淵が31年卒のようである)。樗牛がまだ帝国大学文科大学の学生だった時分、夏休みに帰省すると少年たちを集めて色々話を聞かせてくれたと述懐する。
そして斎藤野の人と一緒に湯野浜温泉に遊びに行って話を聞いたこともあったという。
確かに高山樗牛は何度か帰省のときに湯野浜温泉に寄っている。
工藤恒治『文豪高山樗牛』を見ると、樗牛と野の人が一緒に湯野浜温泉に行ったとすると明治29年7月のようなのだが、これは帝国大学卒業直後だと思われ、計算が合わない。別のときかもしれない。
三淵本人も「半世紀も前の事ですから、殆ど忘れてしまいました」というから仕方ない。ただ、そのなかで忘れ得ぬ言葉として、次のようなことを言われたという。
この言葉が印象に残った三淵は、世界の事を知らず、偏狭であった日本人の在り方を批判する。
私は、少なくとも三淵が――占領下の1948年時点において――高山樗牛=「日本主義」の人だという風には思っていないことに関心を持った。
三淵の筆はその後の西洋派と攘夷派のあらそい、昭和期になってからの攘夷派の増徴と敗戦に及び、これからはやはり世界の進運に貢献し、国際社会の一員となっていくことが大切だとして、次のように締めくくられる。
初出は、本文の末尾の記事によれば昭和23年9月とのこと。
この文章が従来の樗牛論で参照された記憶は私にはないのだが、意外でもあり、妙に納得するようなところもあった。
それにしても虎に翼を見ていなければ、三淵の著書も気になるということは無かったかもしれないので、思いがけぬものに出会うのもタイミングなのかもしれない。
なお、この記事を発見できたのは、山形県立図書館が作成している充実した文献目録のお蔭でもある。図書館の丹念な調査に感服した。
※ヘッダ画像は荘内中学校(荘内案内記. 西田川郡之部)写真の中の明治・大正による。