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佐藤卓己『メディア論の名著30』

40代というのが研究者の人生にとってどういう意味を持つのか、一般化できるかはわからない。ただ、30代で博士論文を書いて本を出せて、その次となったときに、どうも今までの勉強の不足が祟ってくるような気がして、「学び直したい」という欲求が強くなってきた。大学で概説を講義するようになった、という事情も介在しているのかもしれない。

そのようななかで佐藤先生にいただいた本書を読んで、早速「メディア史」と表紙に書いたノートを作り、ここに登場する未読の本を、邦訳があるものはちょっとずつでも読んでいこうと決意するにいたった。それぞれの章立てが魅力的だが、「情報社会とデジタル文化」の章は、新人図書館員が読むのに迷ったらまず読んだ方がいい本のリストとして推したい気持ちが強い。

「メディア史家」である著者が読んで自分の研究の役に立ったかを基準に選書された30分は、「読書人としての「私の履歴書」」とも述べられ、しかもそのことが全く誇張ではなく、佐藤メディア史成立の秘史を物語っている。一冊一冊の記述が濃いので読むのに時間はかかるが、得られる情報も多い。

「メディア」という言葉に込める意味について、加藤秀俊『文化とコミュニケイション』に言及するなかでこんなことが書かれる。

「メディア」という現代語が「広告媒体」として使用され始めた事実をより深く受け止めるべきだと考える私は、資本主義社会が成立する以前の古代史、中世史にはあえて立ち入らない。(中略)その点で、古代帝国や中世村落まで縦横に論じる加藤先生のコミュニケイション史とは目的もスケールも異にしている。

『メディア論の名著30』p.87

どこかで「図書館史」の位置づけを考えながら読んでいた私は、このくだりに妙に触発されて、古代から連綿と続く本の置き場所ではない、図書館の近代性とか公共的な知みたいなことに思いを巡らせた。

ほかにも随所で圧倒されたが、強い印象を残すのは著者の本との出会いのためならば時間も手間も惜しまない姿である。誰かの発表を聞いた、人に教えてもらった、出会い方は様々だが、その本について知らないなと思えば、すぐさま取り寄せて読もうと試みている挿話が、あちこちで出てくることだ。

たとえば著者が訳した『大衆の国民化』との出会いを見よ。1990年代、インターネットの図書館横断検索もなかった時代、図書館のレファレンスで聞いて所蔵期間を突き止め、東大で探し、ないとわかると翌日新幹線に乗って京大に行く。Amazonのネット通販もない時代のことで、洋書と出会うのがいかに大変だったか、ユーザ側の記録として残されている。

当たり前のこと過ぎて著者は特別だと思っていないだろうが、研究はそうでなければならない、君たちはまさかネットで見つからない程度で諦めていないだろうね?と問われているような気持にもなる。自分も同じようにできるかどうかだけでなくて、私の研究歴を見た若い学生たちに、研究へのモチベーションを駆り立てるような本書の姿勢を示せているだろうか。とも考えた。


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