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私たちはいかにして「宇都宮徹壱」と出会ったのか【OWLオムニバス】

OWL magazineのオムニバス記事企画です!

この企画では、普段OWL magazineに寄稿しているメンバーだけでなく、読者を中心としたコミュニティOWL's Forestのメンバーにも書いてもらっています。

OWL's Forestでは、オムニバス記事への参加以外にもメンバー間の交流や、ラジオ番組の作成など様々な活動を行っています。

興味を持たれた方は、下のページをクリック!

さて、前回はサッカー番組をテーマにみんなで書きました。

今回のテーマは、ずばり「宇都宮徹壱」です。

宇都宮さんは、OWL magazineにも寄稿していただいており、OWLとは非常に縁が深い方です。

そんな宇都宮さんが今月13日に新刊を発売したことをご存知でしょうか。

タイトルは、『フットボール風土記』

Jクラブがない土地、既にJクラブがある土地、それぞれからJリーグを目指すクラブを巡り、そのクラブが紡ぐ物語を描写した本です。

我々OWLとしてもこの本をより多くの本を読んでいただきたいと思うとともに、改めて宇都宮さんの魅力を再発見できないかと考えました。

そこで今回は、OWLのメンバーが初めて読んだ宇都宮さんの本や記事、宇都宮さんとの出会いを題材にエッセイを書いてもらいました。題して、「私たちはいかにして「宇都宮徹壱」と出会ったのか」です。

前置きが長くなってしまいました。それでは、今回のお品書きです。

スタジアムに吹く風のように、もとい沼の入口は温かい。(shaker。)
『股旅フットボール』という一石(豊田剛資)
幸せになれる徹壱百景(さとうかずみ@むぎちゃ)
私の中の「サッカーおくのほそ道」(さかまき)
「宇都宮さんはカルチャーの人」(屋下えま)
少年は「ディナモ」から冷戦を知る(つじー)
偉大なる先達、宇都宮徹壱さんから継承した意外なものとは(中村慎太郎)

スタジアムに吹く風のように、もとい沼の入り口は温かい。

(shaker。)

宇都宮徹壱さんとの出会い。マイ・ファースト・テツイチウツノミヤ。

改めてテーマとして問われると「いやー、分かんないなぁ……」という曖昧な回答がおそらく私として精一杯誠実に答えるとそうなる、というのが本当のところだ。

私が自らをサッカーのサポーターの1人であると意識した時に宇都宮さんは既にサッカージャーナリストとして名の通った人だった。サポーターになって間もない者の周りには、たくさんのサッカー本や各種サッカーメディアが色とりどり、しかしまた玉石混交の状態で並んでいる。いくつかの記事や書籍に私は大いに感銘を受けたし、その逆もまた沢山あった。

やがて、それらの中からよちよち歩きのサポーター初心者は「宇都宮徹壱さんが書いたものは読み応えがある、読後に必ずなにか知識が増える、写真も良い、よってこの人が書いた記事は信頼できる」という事に気づいて行く。

オタク界隈で言うところの「沼の入り口は入りやすくて温かい」という感覚に近いのだろうか。

スタジアムへ行く時、よほどの強風でもなければ普通はそこに吹く風を気にしないように、ごく当たり前のようにロック総統のインタビュー記事をサポーター仲間とシェアしたし、東日本大震災の直後の電力供給が不安定な時に暖房を切った映画館でベンチコートにくるまり、保温水筒に入れてきた温かい紅茶を口にしながら映画「クラシコ」の長野と松本の死闘の記録を池袋に観に行った。

そして翌年、家族と「一つだけ関東圏以外のアウェイに遠征しよう」となった時に迷いなく松本戦を選んでいた。
別に当たり前くらいに思っていたけれども、よく考えたら選択肢は他にもあったはずだぞ?!
そうやって風は当たり前のように人の行き先を導いていく。

いろいろ読んだとは思うけれど、敢えて挙げるならば「サッカーおくのほそ道」が良いだろうか。

最初は一瞬頭を使わされる(主に今回の行き先がどこなのか、地理や社会科、歴史の知識あたりだ)が、その後の文章は実にスッと入ってくる。まるで広げた本が小さなスクリーンで、そこに映像が映し出されるかのように。
やがて語られる物語が一旦終わる時に、その浮かび上がる映像に手を伸ばすと空に溶ける風のように消えていく。

そうして、頭の中にある言葉が浮かび上がる。

「行ってみるといいよ。自分の目で実際に見てくれば答えがわかるよ」

その言葉を胸に刻んで旅支度をしたサッカーファンは少なくなかったのではないだろうか。

沼の入り口は入りやすくて温かい。

オタクの世界ではそんな時に「布教成功」と言う。

風に流されただけで気づけばここに来ていた。

そんな時はひょっとしたら周りに当たり前に吹いている風はただの風じゃなかったのかもしれない。

ああ、きっとさっきあそこの駅前にいたサッカーサポーター風の彼らは布教成功されたんだな。

出会った本:『サッカーおくのほそ道』

shaker。
スタグル愛好家。スタジアムグルメを食べ歩き、ご家庭で再現できるレシピを作り、同人誌を発行している。ジェフユナイテッド市原・千葉のサポーターらしい。千葉県出身。
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『股旅フットボール』という一石

(豊田剛資)

僕にとっての宇都宮徹壱さんといえば、2008年出版著書『股旅フットボール』。この著書は表紙を見ただけで購入し、とあるサッカークラブの名前と選手写真1枚を見つけた時の興奮と感動は今でも覚えていえる。

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そのクラブとは、関西リーグ所属のバンディオンセ神戸(現Cento Cuore HARIMA チェント・クオーレ・ハリマ)だ。

2005年、神戸市第2のJリーグクラブを目指すため、セントラルSC神戸からバンディオンセ神戸と組織変更した。

日韓サッカーワールドカップ以後、セントラル神戸SCがプロクラブになる噂をそれとなく耳にしていた。この夢物語は決して悪い話ではない。なぜなら、ヴィッセル神戸が岡山県倉敷市に本拠地を置く川崎製鉄サッカー部を誘致して創設した経緯もあり、純粋な意味において地元神戸市のサッカークラブがJリーグ参入することは十二分に意義があるからだ。

しかし、僕にとっては心躍るような正直明るい噂ではなかった。

というのも、時代背景として、ヴィッセル神戸の赤字経営が発覚、民事再生法の適用申請、三木谷浩史氏が代表を務める会社に経営譲渡された時期とも重なり、プロクラブに対する良いイメージが全く湧かなかったからだ。また、スタジアムや自前の練習場の問題、ヴィッセル神戸との差別化などといった疑問が簡単に思いつくほど、現実味を帯びていなかった。

しかしながら淡い想いが少しはあった。数年では無理だろうが、何十年先でもいい。神戸市で2番目のプロサッカークラブとして認知され、愛された上でJリーグへ参入できれば良い。その先には、プレミアリーグで言えばリバプールとエバートンのように、ヴィッセル神戸とライバル関係になれば面白いと想った記憶がある。

バンディオンセ神戸は関西リーグ1部を3連覇(2005.2006.2007年)、JFL昇格をかけた全国地域リーグ決勝大会にも出場した。しかし、JFL昇格の一歩手前まで来るも手が届かなかった。

当時の主な出場クラブは現在Jクラブなどになっている。J2の町田ゼルビア・松本山雅・ファジアーノ岡山・ギラヴァンツ北九州、J3のグルージャ盛岡、JFLのMIOびわこ滋賀、ホンダロック。錚々たるクラブと真っ向勝負する場所まで辿り着いたことに今でも驚く。もし紙一重の昇格試合に勝っていたら、上記クラブようになっていた可能性があったと言えなくもない。

その後、2008年バンディオンセ神戸は本拠地を神戸市から加古川市へ移転し、「兵庫県」第2のJリーグクラブを目指して日々励んでいる。

宇都宮徹壱さんが2008年に『股旅フットボール』という一石をこの世に投じて12年が経つ。その間には「ボールを蹴る」スキル技術は向上し、育成強化面のフットボール文化は日本サッカー協会の狙い通りになっていると思う。一方、「試合を観る」側のフットボール文化としてはサポーターの熱き想いや愛情の深みを増し続けている。同じように、クラブのスコットやスタジアムグルメなど試合+αのフットボール文化もより一層醸成していくと思う。ただし、それは日本のフットボール文化の一面にすぎず、全てではない。

股旅フットボールのまえがきに宇都宮徹壱さんの仮説が以下のように記されている。

「その国のフットボール文化は、下部リーグこそ現れるのではないかー」(*1)

僕はこの仮説に賛成である。仮説を証明するには、下部リーグがフットボール文化を形成していく上で「大人が一生涯サッカーボールを蹴り続けられる環境づくり、真剣勝負ができる環境づくりもより整えるべきだ」と考える。

なぜならば、1種登録チーム、選手共に年々減少している現状があるからだ。高校または大学卒業後、そして家庭を持った後もサッカーボールを蹴り続ける選手は本当に少なくなってきている。ある一定の年齢になると例えばサッカーボールからゴルフボールに愛情の矛先を変え、サッカーボールを蹴る機会を遠ざけている。

下部リーグに所属する選手は上位カテゴリーのクラブに引っ掛からなかった選手、または退団した選手たちが集まる、言わば「夢破れた選手」たちだ。その中でもまた競争があり、チーム編成等の諸事情によって退団しなければならない選手もいる。

このような選手たちが今後もボールを蹴り続けられる受け皿として、下部リーグの運営面や規定面全てにおける環境をより一層整えなければならないと思う。

一般的に「Jリーグや日本代表は日本のフットボールシーンの氷山の一角である」という認識は低いと僕は思う。都道府県都市リーグや地域リーグがJFL、Jリーグ、日本代表へと繋がっていることを選手、観る側両面で想い描ける人が多いと思わない。

家の近所のグランドで大人たちが必死にボールを蹴り、追いかける姿を見かけたら想像してほしい。今目の前に映る光景の先にJリーグ、日本代表へ繋がっていると。そう想い描ける人が1人でも増えたなら、日本のフットボール文化の未来は必ず明るいはずだ。

*1宇都宮徹壱著「股旅フットボール」P11参照

出会った本:『股旅フットボール』

豊田剛資(とよだたけし)
OWL magazineを読み始めてからサッカー旅に目覚める。現在も社会人サッカー選手として現役でプレーしている。
主な執筆記事:『OWL magazineを読んで僕がサッカー旅へ出かけた理由 〜お礼文を送ったら記事を寄稿することになってしまった〜
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幸せになれる徹壱百景

(さとうかずみ@むぎちゃ)

ウツテツさんの著書との出会い…?
本棚を眺めながら思い返す…

2007~8年くらいからか。まだJFLの栃木SCに出会い、Jリーグクラブ以外のサッカーリーグを知る。でもまだこの頃は、サッカー本に興味はなかった。

2009年。

栃木SCがJリーグ昇格。バリバリのJリーグ原理主義者だった私が、念願の「Jリーグクラブサポーター」になったわけだ。それらしく「サカダイ(サッカーダイジェスト)」やら「サカマガ(サッカーマガジン)」なんかの購読を始める。

そこで、サカダイに連載のコラム「蹴球百景」に出会う。これが宇都宮徹壱氏を知った最初であろうか…

とにかくフォトが目を惹いた。

簡単に世界のサッカーから、日本の片田舎のサッカーの風景まで知ることができた。

この人は本当にいろんなところを旅している人なんだなあ…と憧れた。

そして。厳選されたコラムを纏めた「フットボール百景」が後に出る。
好きが1冊に収まったのだ。

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あらためて本になったものを見て、知り合いが写っているのに、驚きと、何となくくすぐったい感じがあったのを覚えている…。

あの、ね。帯紙が良いのよ。

フットボールを巡る「ちょっとしあわせになる」100+1の情景。

また、エピローグもカッコいいの。

リオデジャネイロ、イパネマの海岸を望みながら  宇都宮徹壱

と、締めてるの。

私はハードボイルドが苦手なくせに、作家の北方謙三氏が大好き。
かっこよく、渋いダンディーなお金持ちが嫌味でない大人の男性。

宇都宮氏にも勝手にそんなダンディーなおじ様とイメージを重ねる……♥️
(まさか、後に 高嶺の花、雲の上の存在と思っていた宇都宮徹壱先生と酒の席に何度かご一緒させていただき、お話できるなんて夢にも思ってなかったあの頃……。しかも、私とたいして年齢かわらんことも知る……。)

当時、純粋無垢なパッション星人「Jリーグサポーター」だった私がどんどんウツテツ氏の著書を読み、だんだんとJリーグに上がらないという価値を見出だすクラブを、そんな道も正しい。理解できる様になった。教えてくれた人のひとり。

あらためて。

酔っぱらったら面白い、愛妻家のチャーミングな愛すべきおじさん、今も昔も、いろんなサッカーの景色を見せてくれるウツテツさんをRESPECT。

心よりウツテツさんの著書に出会えたことに、ありがとうと言いたい。

新刊心待ちにしています……。

出会った本:『フットボール百景』

さとうかずみ@むぎちゃ
ヴィアティン三重、栃木SC、そして船山貴之のサポーター。OWL magazine代表の中村慎太郎に「サッカー界には彼女を表現する語彙がない。」と言わしめた。
主な執筆記事:OWLオムニバス記事『高校サッカーの思い出』内の『私がPK戦恐怖症になったワケ』
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私の中の「サッカーおくのほそ道」

(さかまき)

宇都宮徹壱先生の本を最初に手に取ったのは、2016年に刊行された「サッカーおくのほそ道」だった。当時は新鮮に映った各チームの取材記だが、JFLの試合に足繁く通うようになった今読むと、知っているチーム名も増えて親近感がある。

この本を手に取ったのは、札幌のジュンク堂だっただろうか。

2016年。私のサッカー観戦人生にとって大きな転機となった年だ。

それまでなんとなく気にかけていた地元JFLチーム横河武蔵野FCが東京武蔵野シティに代わり、Jリーグを目指すという。いっちょ本腰を入れて応援しようかと思ったのがこの年。後援会にも入会しユニフォームも購入したにも関わらず、長期の出張で東京を離れることになったのは非常に残念だった。

しかし、出張先は北の大都市、札幌。JFLは無いがスポーツ観戦には困らない土地だった。それどころか、この年の北海道のスポーツは史上稀に見るほどの大盛り上がり。

野球では投打で大車輪の活躍を残した2刀流、大谷翔平を軸に優勝した北海道日本ハムファイターズ。日本シリーズでは現役最後のマウンドとなった黒田博樹と大谷の対決を目に焼き付けた。

バスケットボールでは開幕したてのBリーグ。折茂武彦と富樫勇樹を見たくて、夕張まで駆けつけた。

そして忘れてはいけないのはサッカーだ。コンサドーレ札幌の昇格、そしてJ2優勝が近づくにつれて増える観客数。外の寒さを全く感じないドーム内の熱気は衝撃的だった。最終節、試合終盤に札幌DFがボール回しをしながら試合終了を待った時のあのスタジアムのどよめきは忘れられない。

そんな熱戦ばかりの2016年秋、11月13日。私は何故か八戸のスタジアムにいた。

その日の観戦カードはヴァンラーレ八戸ー栃木ウーヴァFC。既に八戸はJ3参入要件の4位に届かないことが決定しており、2016年の最終戦の消化試合。とはいえ、元日本代表市川大祐の引退試合でもあった。清水エスパルスを皮切りに、在籍したチームの選手幕が並ぶ姿は壮観で、きっと往年のファンも最後の勇姿を目に焼き付けようと足を運んでいることだろう。アウェイ側に目を向ければ、栃木ウーヴァFCのサポーターはわずか一人。文字通りの孤軍奮闘で応援をしている。同時刻に開催されたアスルクラロ沼津ーファジアーノ岡山ネクストの試合結果によって、降格が決まる選手の心持ちはいかほどだったのだろうか。

試合は前半に八戸が先制するも、栃木も意地を見せる。ゴールを決めたのは栃木ウーヴァの顔、若林学。前の座席に座っていた観客も思わず、「相手のFW、でっけえなあ」と漏らすほどの長身FWだ。このまま引き分けで試合終了かと思った後半終了間際、磐田からレンタル移籍をしていた岩元颯オリビエの決勝ゴールで八戸が勝ち越し。そのまま試合を締めて元日本代表の引退に華を添えた。それと同時に遠く静岡では沼津が快勝し、栃木の残留も決定する。

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それから7時間フェリーに揺られ、始発まで苫小牧のネットカフェで過ごし、始発で札幌へと向かう。2日連続のフェリー雑魚寝は本当に地獄だったが、記憶に残る私の中のサッカーおくのほそ道だった。

あれから4年。八戸もJ3参入を果たし、栃木ウーヴァは栃木シティFCに名前を変え再度JFLを目指している。一方で当時Jリーグを目指すクラブとして描かれた東京武蔵野シティはJリーグ参入を断念し、再び歩みを始めた。宇都宮徹壱先生の本には、取材当時と出版時のギャップを埋める注釈が入る。この4年間に入った注釈はなんだったのか。新刊だけでなく既刊もこれを機に読んでみることをおすすめしたい。

出会った本:『サッカーおくのほそ道』

さかまき
東京武蔵野シティFCサポーター。stand.fmで「キャプテンさかまき」として『旅とサッカーを紡ぐラジオ OWL FM』を配信中。
主な執筆記事:『「キャプテンさかまき 深夜の馬鹿力?!」 OWL FCのラジオパーソナリティ、はじめました!
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「宇都宮さんはカルチャーの人」

(屋下えま)

タイトルは旧知の中村慎太郎から作家・写真家である宇都宮徹壱氏に出会ったという話を聞いたとき、私が前々から好きだった宇都宮さんを激推ししたときの言葉の一部です。

だいたい記憶なんてあてにならないものなのですが、その当てにならない記憶が確かならば、私が宇都宮さんと出会ったのは大学院生のころ。恐らく2002年の日韓共催のFIFAワールドカップ周辺時期のスポーツナビでの連載だったように思います。毎日更新されるコラムを、なんとなく毎日読んでいました。

記憶というのは不思議なもので、コラムを読んでいた自分のデスクやその時使っていたパソコンのことは鮮明に思い出せるのですが、なぜ宇都宮さんの名前を覚えて本を買うようになったのか、直接的なきっかけは全く思い出せません。もしかしたら、そういうのはなかったのかもしれない。大きなきっかけになったコラムがあったわけじゃないのに、何故か心に残ってしまう。他にもたくさんのライターが連載していたなかで、私が新刊を予約して本を買うような愛読者になったのは宇都宮さんただ一人です。

私はOWL magazineに寄稿している人の中で、おそらく唯一の「サッカー見るのもやるのも素人」勢です。一人なのに勢(ゼイ)っておかしいけれど気にしない。スポーツ観戦はとても好き。でもサッカーよりもバスケや野球やラグビーのほうが観戦歴は長いし多い。だからスポーツに関する記事はwebでも紙でもよく読んできましたが、分野を選ぶことなく気の向くまま、風の吹くまま。

そんな中でなぜ宇都宮さんの名前を気にするようになって、文章がとっても好きになって、追いかけることになったのか。理由は2つありました。

1つ目は写真と文章のコンビネーションの素晴らしさです。宇都宮さんの写真は、時に文章より雄弁に語ります。そしてそんなときの文章はバンドのベースみたいにほんの少し抑えられています。逆に文章にずっしりとした重みがあるときには、それを和らげるような写真がチョイスされているように思います。わたしと文章をちょっとだけ仲介してくれるような、そんな写真。

2つ目はサッカーに関する文章でありながら、そこにサッカーだけに留まらない何かがあるところ。サッカーじゃなくてフットボールのほうがしっくり来るかな。宇都宮さんは私にとってフットボールの人ではなく、カルチャーとか教養の分野の書き手なのです。メジャースポーツであるフットボールを下敷きにしながら、そのメインストリームにいない人々や場所について愛情を込めて語ること、ほらここにこんなに素敵なストーリーがあるよって、こっそり教えてくれるのが好きなのです。あからさまじゃないのが良いのです。

珍しい食材と身近な食材が丁寧に準備され、淡白な味付けながらもコクがあり、たまにピリリとワサビを感じる、加賀料理の治部煮みたいな宇都宮徹壱ワールド、皆様も是非ご堪能ください。

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(©石川県観光連盟)

そんな私が選ぶ1冊はこちら!

本じゃなくて、ウェブマガジン 『宇都宮徹壱WM』

本もいいけど、とにかくたくさん読めるウェブマガジンは本当に素晴らしいと思っています。

屋下えま
旅するより住みたい派。日常の延長線上にある楽しみをつづります。
主な執筆記事:『ぼくらが旅に出る理由/わたしが旅に出ない理由 (旅をしないわたしが旅のマガジンで書き始めるまで)
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少年は「ディナモ」から冷戦を知る

(つじー)

宇都宮さんの本を初めて読んだのはいつだったろうか。今から20年近く前、まだ僕が小学生のときです。家の近くの図書館でふと見つけた本が僕と宇都宮さんとの出会いでした。タイトルは、『ディナモ・フットボール』。

この本は、宇都宮さんが「ディナモ」と名前のつくロシアや東ヨーロッパ、ドイツのサッカークラブを巡った紀行本です。

本でも語られますが、「ディナモ」とはその国の内務省、秘密警察が持つサッカークラブであり、いわば権力の持ち物でした。

訪れたクラブには、日本とも縁あるところがあります。例えばディナモ・ザグレブです。クロアチアにあるこのクラブには、かつてキングカズこと三浦知良が在籍していました。

また、ウクライナにあるディナモ・キエフには、2019年にジュビロ磐田に在籍していたジェルソン・ロドリゲスが現在主力として活躍しています。

改めて読み返すと、冒頭のプロローグからぐいぐい引き込まれます。1945年冬のロンドンに降り立った謎のサッカーチーム。サッカーの母国イングランドで、彼らは先進的なサッカーを披露します。そのチームとは、ソ連からやってきたディナモ・モスクワ。ソ連とは、かつてアメリカと世界を二分にした巨大な社会主義国家です。「ディナモ」と名がつくクラブは、社会主義国家にて存在していたのです。

ソ連は解体され、社会主義がある種否定された時代の中でも「ディナモ」の名前は各地で生き続けています。果たして「ディナモ」とは何なのか。どことなく懐かしさや妖しさを秘めたその言葉に宇都宮さんは引き寄せられて各地を巡ります。

この本では硬質な文章でちょっぴりハードボイルド風味な宇都宮さんが垣間見えます。しかもそれが非常に魅力的です。この硬質な感じが、まるで文章が冷凍保存されたかのように今もなお新鮮な印象を読者に与えます。これが今読んでも古びた感じがしない一つの理由ではないでしょうか。

小学生の僕はこの本で「冷戦」や「社会主義」を知りました。自分の大好きなサッカーと、生きている社会や歴史が実は交わっていることに大きな衝撃を覚えました。サッカーというものの奥深さをこの本で知り、ますますサッカーが好きになりました。

右も左もわからない小学生にサッカーの深淵を教えてくれた宇都宮さんに深く感謝です。ありがとうございます。

出会った本:『ディナモ・フットボール』

つじー
北海道コンサドーレ札幌サポーター。stand.fmで『コンスレンテつじーのサッカーお悩み相談室』を配信中。
主な執筆記事:『札幌サポ、韓国の要塞でACLに出会う
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偉大なる先達、宇都宮徹壱さんから継承した意外なものとは

(中村慎太郎)

宇都宮徹壱さんとの出会いについて書こうと思ったのだが、実は書くことがまったくない。何故なら、かつてブログに書き記してしまったからだ(文末にリンクを掲載する)。さて、どうしたものだろうか。

当時の瑞々しい気持ちはそのままながら、当時と今ではぼくの中にある宇都宮徹壱像が変わってきていることに気付いた。なのでそれを書いていこうと思う。

当時のブログに詳しく書いてあるが、出会ったのはお台場で行われたイベントであった。それはぼくが世に出る切っ掛けとなった『Jリーグを初観戦した結果、思わぬ事になった』という20万PVのバズ記事が出る少し前のことだった。当時のぼくは、1文字0.5円の単価で記事を作る底辺Webライターであり、無名のブロガーであった。

そんなぼくから見た宇都宮徹壱さんは著書を出していて、自分のメディアである「徹マガ」も主催していた。文章を読むと、サッカー記事なのに文化の香りがした。文化の香りといってもヨーロッパかぶれのファッション思想家のようなクサさはまったくない。確か初期に読んだ記事に鉄腕アトムか何かが出てきたと思う。その時のサブカルの出し方が非常にフラットで、高い教養がなければとても出来ないやり方だと膝を叩いて感心したのをよく覚えている。

宇都宮徹壱さんに「ブラジルW杯に行ったほうがいいよ」と勧められてブラジルを訪れたり、35歳くらいの時に「35歳はまだ若い。今から何にだってなれるよ」と千田善さんと一緒に力強くエールを送ってくれたり、OWL magazineのメインライターとして参加してくれたり……。

本当に宇都宮さんにはお世話になってばかりなのだが、ちょっと逆の話もしてみよう。というのも今はぼくの主催するOWL magazineが宇都宮さんに仕事をお願いする立場になっているからだ。もちろん、原稿料が高いとは言えないので、宇都宮さんのご厚意で書いて頂いている状態ではあるのだが、それでも仕事は仕事なのである。

え?突然マウントを取りだしてどういうつもりかって?

そういうことが言いたいわけではないのだ。なぜ、そういう関係になったかということが大切なのだ。宇都宮さんは、まだ駆け出してもいないような頃のぼくにとっても優しかった。どんな記事を書いたのか見せてと声をかけてくれて、無名の状態でもインタビュー取材をしてくれた。徹マガからの執筆依頼を頂いたことも何度もあった。

ただ、当時のぼくは、仕事のコントロール出来ていなかったので原稿は常に遅延気味で、いつも迷惑かけていた。それでも宇都宮さんはずっと優しかった。陰口を言われたようなことも恐らくないはずで、とても大切にして育ててもらったという思いが強い。

宇都宮さんの優しさがあったから、小さいながらも自分でメディアを立ち上げて、さらに大きい仕事に向かうというステージに立つことが出来たのは間違いない。

だから——。

ぼくも後輩の書き手、クリエイターにはとことん優しくしようと思っている。うまくいってなくても、原稿が遅くて、返事が遅くても怒らない。もどかしくてもあんまり指図はしないその人の未来を信じて、良いところを指摘し続ける。

そういう姿勢でいれば、きっとどこかで五十嵐メイから仕事をもらえるようになるはずさ。ひひひ。

蛇足ながら、五十嵐メイも宇都宮さんの取材に同行したり、記事執筆の手伝いをしたりする機会を得て、急速に成長した。ぼくだけの手柄だと言いたいところだが、実質的には宇都宮さんの弟子のようになっている。ぼくはメンターという感じかな。

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というわけで、2013年に始まった宇都宮さんとの出会いは、形を変えながらもずっと続いてきている。

カタールW杯が無事行われるかどうかはわからないけど、開催されることを前提に宣言しましょう。

「宇都宮さん&ぼくと、カタールで乾杯しよう!!」

そう、これを読んでいるあなたへのメッセージです。OWL magazineの読者を集めて飲み会するので、カタールいこうぜー!そしてレポートを書いたり、座談会したりして遊びましょう。OWL magazineはそういう集まりなのです。

ラジオもやりました!

中村慎太郎(なかむらしんたろう)
OWL magazine代表。FC東京サポーター。書籍『サポーターをめぐる冒険』がサッカー本大賞2015を受賞。stand.fmで『中村慎太郎のクリエイティブドライブ』を配信中。
著作:『サポーターをめぐる冒険』『JORNADA 1』『JORNADA 2』『JORNADA 3
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奇しくも、このオムニバス記事と同時期に中村さんの記事が配信されました。

有料記事ですが、前半部分は無料で読むことができます。是非、お読みください!

したっけー。おしまい!

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スポーツと旅を通じて人の繋がりが生まれ、人の繋がりによって、新たな旅が生まれていきます。旅を消費するのではなく旅によって価値を生み出していくことを目指したマガジンです。 毎月15〜20本の記事を更新しています。寄稿も随時受け付けています。

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