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失った「好き」と「アイデンティティ」を取り戻せ―映画『FC スカヴァティ 赤から紫へ』

 ある日突然、自分が応援していた何かが目の前から消え去ってしまったら?あなたはどうなるだろう。アイデンティティと日常を「喪失」したサポーターが「再生」によってそれらを取り戻すまでの物語。サッカーは社会を切り離せない。歴史において記録を残すことほど大事なものはない。

※本作は、10/12(土)~18(金)に開催されるヨコハマ・フットボール映画祭2024にて、10/12と18に上映され、関連イベントが10/11(金)に開かれる。詳細は「4.映画の案内」を参照のこと。


1.描かれるのは日常の「喪失」と「再生」

 「推し活」という言葉が一般的になった今、何かを応援することが自分のアイデンティティや日常とぴったり重なり合うことは特殊なことではない。多くの人々の「あたりまえ」に近いのではないだろうか。

 中には応援していて何かが急に失われたり、応援できない事情が発生するなどしてアイデンティティや日常の「喪失」を経験する人もいるだろう。

 本作の主人公である安養LGチーターズのサポーターたちもそうした「喪失」に直面した。韓国のソウル近郊に安養(アニャン)にあったクラブは、2000年には韓国Kリーグを優勝するなど順風満帆の状況だった中、突如ソウルに移転してしまう。2003年のことだ。

 自分たちが全身全霊をかけて応援していたクラブが何の前触れもなく目の前から去っていく。日常に大きな穴が空き、アイデンティティは大きく揺らぐ。

 しかし話はここからだ。「喪失」を経験したサポーターたちは、その「再生」を目指す。失われた9年の時を経た2012年、安養に再びサッカークラブ・FC安養が誕生する。チーターズの赤ではなく街の象徴である紫のチームカラー。でも紛れもなく「私たちのクラブ」だ。

 応援する対象の消滅によるアイデンティティや日常の喪失、そこからの立ち直りはサッカーファンでなくとも、何かを応援した経験がある人は身に染みるだろう。しかも作品の主役たちは立ち直るだけでなく再生まで果たしている。

 ただしこれが本当の意味で「再生」かどうかは分からない。名前もクラブカラーも変わったし、歴史を積み重ねていけばいくほど喪失を経験した人々も少なくなっていく。再生と新生が混ざり合う状態だ。

 それは応援していた何かが失われたとき、完全な形で再生し、傷を癒すことがいかに困難かを教えてくれる。だからこそ応援しているその瞬間は尊い時間になるのだ。

2.政治と社会なくしてサッカーなし

 この映画はただの「サポーター物語」にとどまらない。見た人は主人公たちの歩みを通して、韓国サッカーが社会や政治といかに離れられない関係にあるか理解するだろう。

 出てくるサポーターの中には韓国経済の不況によって就職先がまったく見つからない世代の大学生時代にクラブがよりどころだったという話を持つ者もいる。

 景気とサッカーの関わりはついクラブ経営の方に目がいくが、このようにサポーターの人生ともぴったり寄り添うのだ。

 チーターズが移転しFCソウルになったとき、満面の笑みで選手たちと握手する背広姿の男が映像にうつっている。

 どっかで見たことある顔かと思ったら当時ソウル市長だった李明博(イ・ミョンバク)である。どうして見たことがあるか。それは彼が後に韓国大統領まで登りつめるからだ。

 大統領といえば、クーデターにより権力を握り「独裁者」と称された全斗煥(チョン・ドゥファン)が大統領時代に国民感情を和らげるために利用したのがスポーツという話も登場する。その恩恵を受けてKリーグ(当時はスーパーリーグ)は始まったのだ。

 もっと言えば安養FC誕生にも政治が関わっている。クラブ創設を最後に決めたのは市議会だし、市長は選挙で「安養にサッカークラブを作る」という公約を掲げて当選している。

 「サッカーに政治を持ち込むな」という言葉を聞くことがある。だが、この作品を見ていれば「持ち込む・持ち込ませない」以前の話だと理解できだろう。持ち込もうといなくても、ぴったり影のようにサッカーに寄り添っている。それが政治であり社会だ。

3.出てこい日本のナ・バルとソン・ホビン

 本作は、サポーターの目を通してクラブの歴史が記録されている。ここに何よりの価値がある。

 文化を豊かにするには歴史の積み上げは不可欠だ。それは良い歴史も悪い歴史もである。積み上げるために残さなくちゃいけないものが記録だ。

 今年の大河ドラマ『光る君へ』には藤原道長を筆頭に多くの平安貴族が出てくる。史実での彼らの多くは日記を細かくつけている。何のためか。

 自分の身の回りに起きたことや仕事の情報を記録し、自分の子孫がより上手く生きたり仕事をしやすくするためである。貴族たちは記録を残し、歴史を積み上げる大切さを理解していたのだ。

 クラブの歴史は公式が残すだけでは50年後、100年後に本当の思いや真実は伝わらない。サポーターも含めた様々な角度からクラブの歩みを残しておく必要がある。

 今回、ナ・バル監督とソン・ホビン監督は映像という形でクラブの歴史を記録に残してくれた。映像であっても映像でなくても構わない。文章を書いて冊子にしてもいいし、音声にして残してもいい。写真集だっていいだろう。

 我々日本のサポーターも後世に伝わる形でクラブの歴史を記録するミッションが課せられているのだ。これから先、サポーターの中から日本のナ・バルとソン・ホビンが多く出てくることを願っている。

4.映画の案内

【スケジュール】
→10/12(土)16:55~@かなっくホール
※上映後、監督2人によるトークセッションあり
→10/18(金)19:30~@シネマ・ジャック&ベティ

【関連イベント】
ヨコハマ・フットボール映画祭presents 燃えろ!K2党 第0節
→10/11(金)19:30~@スポーツ居酒屋KITEN!
※作品スタッフによる韓国サッカートークイベント

【予告編】

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辻井凌|つじー
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