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駒沢オリンピック公園を手がけたのはサッカー日本代表選手だった―吉見俊哉『五輪と戦後』より
東京都世田谷区にある駒沢オリンピック公園。1964東京五輪のために整備されたこの公園、これを手がけた高山英華が「サッカー日本代表選手」だったことを知っているだろうか。吉見俊哉『五輪と戦後』をヒントに書く、サッカーと五輪の知られざる物語。
1.1964東京五輪とサッカー
東京五輪とサッカーには競技面以外にも深い関わりがある。今回紹介する話は2020ではなく1964のほうだ
1964東京五輪のサッカーにおける著名な人物をあげるなら、川淵三郎とイビチャ・オシムである。
川淵は、サッカー日本代表監督、Jリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会会長、日本バスケットボール協会会長などを歴任した。サッカーにとどまらず、日本スポーツ界の重鎮である。
彼は元々れっきとしたサッカー日本代表選手であった。1964東京五輪では日本が唯一勝利したアルゼンチン戦でゴールを決めている。
ジェフ千葉や日本代表の監督をつとめ、多くのサッカー人に愛されたオシムは、ユーゴスラビア代表として来日していた。日本との試合では2ゴールを決めている。
このように選手をはじめとする競技の関わりとは別に、1964東京五輪はサッカーと大きな関わりがあった。ひょっとすると競技よりも重大な関わりとして。
その舞台は駒沢オリンピック公園だ。吉見俊哉『五輪と戦後』では、丹下健三が設計した国立競技場以上に「東京五輪の傑作」と評されている。
2.なぜ駒沢オリンピック公園は「傑作」なのか
駒沢オリンピック公園は、陸上競技場、体育館、屋内球技場、屋外球技場、補助競技場などで構成され、五輪に向けて整備された。
そもそも駒沢には広大なゴルフ場があり、1940東京五輪のメインスタジアム建設予定地とされていた。かつて五輪の主役は代々木ではなく駒沢だったのである。
この公園を傑作たらしめたのは「全体の構成」であり、オリンピックを目的ではなく「手段」ととらえた発想力であった。
個々の施設をみれば、丹下健三が大胆な思想のもと作り上げた国立競技場にはどれも劣る。しかし施設と自然、周辺地域の調和という点において、駒沢オリンピック公園は他の会場を圧倒する。
建築・都市史家の東秀紀によれば、公園の特徴は「道路、橋といった土木分野、体育館、競技場などの建築分野、そして公園の造園分野という、三つの分野が一つのコンセプトでデザインされているところ」にあるそうだ。
公園の計画段階でまず招かれたのは、建築家ではなく造園家だった。ゴルフ場時代からあった樹木を切らず、過去からの自然を継承することを前提に計画を練る姿勢のあらわれである。
競技施設が緑地や森に包みこまれるように演出されている。敷地の大部分が緑地なわけではないのに、緑におおわれているように思えるのはこのためだ。公園全体はループ状の園路でまとめられ、施設は園路の木々の間から見えるようになっている。
オリンピックを開催するとき、誰もが「オリンピックをどうするか」を考えて施設を建てたり、政策を打ち出したりするだろう。だがこの公園を手がけた中心人物は違った。
彼の視線はオリンピックにはなかった。オリンピックよりも、そのあとの総合運動公園の計画をまずつくろう。これが彼の発想であった。
そして彼の関心は、丹下のように施設そのもののデザインにもなかった。「オリンピック以後の使い方や事業計画」に最も関心を持っていたのだ。
だからこの公園は東京五輪との調和以上に、周辺地域との調和を意識した設計になっている。現代風にいえば「持続可能な」計画を1960年代の段階で行っていたといえる。
オリンピックはお祭り、宴である。でもその後始末は思いの外考えられていない。駒沢オリンピック公園に携わった人物は「宴のあと」をしっかり見据えていたのだ。現代にも通じる慧眼である。
この発想で公園を手がけたのは、都市計画家の高山英華だ。実は彼、かつてサッカー日本代表の選手だったのである。
3.サッカー日本代表の都市計画家・高山英華とは
高山英華。日本の都市計画学はこの人抜きに語れない、都市計画の第一人者である。東大工学部に都市工学科を設立したのは彼だ。
彼が手がけた都市計画で著名なものに、秋田の八郎潟干拓、東京の新宿副都心、茨城の筑波研究学園都市がある。1964東京五輪のみならず、1970大阪万博の万博記念公園造成にも関わっている。
そんな高山は、サッカーにあけくれた学生生活を送っている。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)と東京帝国大学(現・東京大学)ではサッカー部に所属していた。
ただ単にサッカーを楽しんでいただけではない。帝大在学中には1930年極東選手権の日本代表メンバーに選ばれている。そう、彼はれっきとした日本代表選手だったのだ。
1930年極東選手権は、サッカー日本代表史に残る記念すべき大会だった。
そもそも極東選手権とは、フィリピン、日本、中華民国を主な参加国として1913年から計10回開かれた大会である。実はサッカー日本代表の初の国際試合は、この極東選手権だった。
1917年大会に初出場した日本は、中華民国に0-5、フィリピンに2-15で負けるほろ苦い国際試合デビューを飾った。
ちなみにフィリピン代表の中心だったのがパウリーノ・アルカンタラという選手だ。彼はあるサッカークラブにてクラブ通算得点歴代2位の記録を持っている。
そのクラブがなんと、スペインのFCバルセロナだ。そして彼を抜いて歴代1位に立っているのが、あのメッシである。
この苦いデビューから日本サッカーの大きな目標が、極東選手権での勝利と優勝だったのである。
高山が選ばれた1930年極東選手権は、フィリピンに7-2で大勝、中華民国に3-3で引き分け、同率優勝を成し遂げた。そんな記念すべき大会のメンバーだったのだ。
彼のプレースタイルについて、日本サッカー史に残る名FWである川本泰三は次のように語っている。
以前にも話した高山英華のように、ズーと走ってきてパッと止まる。相手もパッと止まる。瞬間ワッと出る。相手がかかとをつけた瞬間なのだ。一度かかとをつけるとすぐには次の動作には移れない。要するに相手が動けない状態のときに一足先にこちらから動く。
(賀川サッカーライブラリー)
それだけではない。彼は1936ベルリン五輪の代表候補にも選ばれていたのだ。しかし病気のためベルリンに行くことはなかった。
彼をおいてベルリンに向かったメンバーは、優勝候補のスウェーデンを破り、世界をわかせることになる。「ベルリンの奇跡」のメンバーだ。
選手として五輪に参加できなかった人物が、都市計画家として母国の五輪に携わる。駒沢オリンピック公園の計画は、彼の仕事の中でも特に思い入れがあったという。サッカー人の血が騒いだのかもしれない。
4.参考資料
◎吉見俊哉『五輪と戦後』
◎五輪アイスホッケーに学ぶ サッカーのフィルターを通して見た共通点(賀川サッカーライブラリー)
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