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まだ誰かが、「理不尽に宥してくれる」かもしれないから

 告知のとおり、フキさんとのコラボキャスを催行。当初に予定していた話とは異なる、思わぬ方向にトークの内容は転がっていったのだが、コメントにもあったように、まさに人間の「実存」の核心にふれるところまで議論が深まって、私にとっては本当に貴重な対話の時間となった。

(※録画視聴パスは2月1日の記事もしくはマガジンより取得できます。)

 対談の録画は公開保留中なので、上掲は私の振り返りキャスだけれども、その中でも改めて述べたように、相当数の人々が(実は)しばしば心の奥底に抱えている「存在することそのものへのかすかな後ろめたさ」というか、敢えて言えば「原罪」の感覚のようなものが、明るく楽しい言葉のやり取りの背景で、ひそかな通奏低音のように響き続けていた対話であったように思う。

 以前から繰り返し述べているように、人間が「自分で自分を宥す」ということは、(よく言われていることとは相違して)基本的にはできないことだと私は思っているのだけど、ならばそこから「自分ではないものに宥される」方向へとシフトすることがいかにして可能なのか、それはひょっとしたら、人によっては「自分で自分を宥す」ことと同じくらい困難なことではないのか、といったことが問題になっていたように感じられた。

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