信仰を「現実」だと思いなす人々こそが恐ろしい
実生活上の用務に忙殺されて、しばらくツイッターなどもほとんど見ない日々が続いていたのだが、さきほど久しぶりに覗いてみたら、なにやら「性欲と優しさ」の問題などについて大議論が行われていたようで、実に平和なことでよろしいと、秋の陽射しのような気持ちになるなどした。ただ、同時に日々の仕事に追われてそのことで頭をいっぱいにしている人たちからすれば、この種のウェブ上の「議論」は、「なんでそんなこと一生懸命にやってるの? よほど暇なんだね」と感じられることがおそらく多いだろうとも思う。私のような者でさえ、しばらくSNS等を閲覧しないでいると、再びその喧々諤々を目にしたときに、「なんでこの人たちは、むやみに熱心にこんな話をしているのか」と、つい感じてしまうくらいだから。
ひょっとしたら個々人がそんな経験をしていることも背景にはあるのかもしれないが、どうやら我が国では、宗教を筆頭とした、人間の実存の根源を深く問い、それを基礎づけようとするような営みにコミットするということについても、「現実に差し迫った問題を抱えていない暇な人間のやること」だといった認識でいる方々がわりと多いようである。要するに、「現実に追い立てられずにぶらぶらと暮らしているから、生きる意味とか余計なことを考えて、宗教などにはまってしまうのだ」というわけだ。だが、(本noteの読者の方であれば予測されているだろうけれど)私はこの種の認識を、かなりナイーヴなものだと考えている。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?