保守番組たちは賞味期限切れに近いかもしれない
ねずぴかです。
今月の7日に29回目の誕生日を迎えました。
20代ラストイヤーですが、「毎日が全盛期」を合言葉に頑張っていこうと思います。
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今となっては、保守的な政治言論というのもメジャーになってはいるが、それはここ10年の出来事であるというのを忘れてはならない。
保守っぽい言論・思想というと、かつては渡部昇一氏くらいしか表立った発言をしておらず、その後に小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言』シリーズが出される程度で、キワモノの部類の域から出られていない状態であった。
しかし、当時の民主党政権から自民党へ再び政権交代をする時期から、主にニコニコ動画・YouTubeをはじめとするインターネット番組で大きな火をつけることになった。代表的なものは虎ノ門ニュース、文化人放送局、チャンネル桜だろう。それらの3番組を皮切りに、さまざまな番組、個人チャンネルが開設されていった。
※チャンネル桜はゼロ年代に番組が立ち上がってはいるが、ここではインターネット番組としてのものとして扱う。
今や虎ノ門ニュース、文化人放送局、チャンネル桜の3番組は見る影も無くしてしまい、そこら辺のオカルト番組に成り下がってしまった。
出演者の言動も含め、これら3番組の批判は(政治界隈にとっては)手っ取り早くいいねを稼ぐコンテンツにもなっている。
ただ私個人としては、安直な批判はしたくないので功罪を併記しようと思う。
保守番組がもたらした功績・恩恵
保守番組の最大の功績は「保守っぽい言論・思想に人権を与えた」ことだろう。
先ほども挙げた通り、これまでの歴史を振り返っても、リベラルな言論・思想というのが表立ったものであった。たとえ、選挙などの結果として現れていなくてもだ。
学者や文化人はもちろん、マスコミや本も赤みがかったリベラル色で染まっていた。頭の中や心の奥底では「そうは思うわない」など反対の意見があったとしても口には出せない。口にした瞬間、思想が強い「ヤバイ奴」判定を受け、関わりたくない人リストに入れられただろう。(だからこそ、そんな時代でも先陣を切って発言した渡部昇一氏は偉大だと思う)
そうした「隠れキリシタン」化していた者たちを保守番組は救った。保守番組によって「自分だけではなかった」という一つの安心感・連帯感を作り出して、それがやがて大きなうねりを作り出した。
このうねりによって、保守っぽい・右っぽい発言や思想は言ってもいいし思っててもいいものになり、人権を獲得していった。
虎ノ門ニュース、文化人放送局、チャンネル桜たちはそれらを牽引する係にもなった。そしてその他の番組や個人チャンネルも追随できるようになっていった。こうした意味合いでは、この3番組の存在は非常に偉大であり、功績とも言えるだろう。
もう一つ功績としてあげるなら、「政治に興味がなかった層を掘り起こすことに成功した」ことも挙げられるだろう。
政治経済というものは性質上、どうしても堅苦しさや小難しさを感じてしまうため新規の視聴者・読者・ユーザーを獲得することが困難な部類だ。
特に長年言論空間を牛耳っていたリベラル派は、どうしてもある程度の水準の知識を有していることを前提に話すため、よりその状況に拍車がかかっていた。
こうした状態に風穴を開け、新規の視聴者・読者・ユーザーを掘り起こすことに成功したのは大きな功績でもあろう。(そして掘り起こした人たちをリベラル派に取られず囲い込むことができたのも大きい。)
こうした「隠れキリシタン」化した者たちに陽の光をあて、さらには分母を増やすことに貢献し拡大していった保守番組だが、そのことによって引き起こしてしまった罪・副作用はいったい何だろうか。
保守番組がもたらした罪・副作用
保守番組がもたらした最大の罪は「今まで政治経済に興味がない人を掘り起こしてしまった」ことだろう。先ほど功績として書いていたが、長所は短所の裏返し的な者なのかもしれない。
より正確に言えば、「今まで政治経済に興味がない人を掘り起こしすぎてしまった」とも言うべきなのかもしれない。
先ほども述べたが、政治経済というものは性質上どうしても堅苦しさや小難しさがあり、その上で前提知識も数多くあり学び続ける必要があるため、新規で参入することが難しい分野だ。
しかし、今まで政治経済に興味がない人まで掘り起こしすぎてしまった結果、「難しいことは知らない・勉強したくない。でも何かいっぱし語れるようにはなりたい。」といったマインドの人たちを視聴者・読者として多く抱えるようになってしまった。
保守番組が最盛期を迎え、TwitterをはじめとするSNSでも個人で発信するインフルエンサーも多く誕生した。ただ、大きな課題に直面した。
視聴者・読者・フォロワーたちの時間を奪い合うことになってしまったのだ。全人類に平等に配られた24時間をいかに自分に多く配分させるか、その観点で争われるようになった。
そして自分の視聴者・読者・フォロワーを離れさせないように、正しさや正確な知識よりも自分達が抱えている「お客様」に対して一番耳障りのいいことを話すようになった。それをより端的かつパワーワードを交えてだ。
今思いつく例としては、高齢者が多い場合は戦前讃美や復古・墨守主義的な発言を多くしたり、氷河期世代を多く抱えているのなら「持ち家・マイカーはいらない」など家庭を持っている人間ならほぼ確実に欲しがるものを否定したりなどだ。
確かに今まで日陰者・マイナー扱いだった保守言論をメジャーなものにしたのは大きな功績だったのかもしれない。ただ今必要なのは、個々人がそれぞれ独立して学び続けるか、それをいかに後押しできるかのフェーズに入りつつある。今までの成功体験で、縛られてそれができないのであればもう賞味期限切れになりつつあると言うべきなのかもしれない。
自分が「賞味期限切れ」にならないために
今や受験業界だと映像授業が主要となりつつある。かくゆう私も、映像授業を主とする塾に通っていた。
そこで言われていたのが、「学力がないうちは映像授業を受けて問題演習をするスタイル。学力がついてきたら問題演習を行い、わからない箇所があったら映像授業で復習するスタイルにする」これを徹底させられた。
ある程度力がついてきたら、自主学習を主として動画を従にする、その逆転をする必要がある。
政治界隈も同じような状況になっているだろう。
ある程度自学自習できる層も顕在化してきている。こうした層はまだ数は少ないので、こちらに方針転換した場合は再生数などは落ちるかもしれない。
育てるという視点に立つと、転換期に差し掛かってる。私たち個人もこの転換期に乗り遅れたくないようにしたい。