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誹謗中傷について改めて整理してみた

ねずピカです。
先月は休んでしまいすみませんでした。
絵に描いたようなパワハラ上司との戦いが終わり、一息ついたので今月からまた再開します。

昨今のSNSやネット掲示板などでの誹謗中傷およびそれに対する訴訟・開示請求は、昔に比べれば広く社会に浸透してきてはいるだろう。
しかし、「境界知能」や「陰謀論」と同じく、言葉そのものがパワーワードかつ水戸黄門の印籠のごとく決め台詞かのように言葉を使いすぎてしまった結果、言葉が本来持つ意味(辞書的なもののみだけでなく文脈などでカバーできる範囲も含む)から大きくかけ離れてしまい、陳腐化していると感じるのだ。
そこで改めて「誹謗中傷」とは一体どんな意味なのかをここで整理していきたい。

誹謗中傷の辞書的な意味

まずは辞書的な意味は下記のように定義されている。

[名](スル)根拠のない悪口を言いふらして、他人を傷つけること。

https://qr.paps.jp/PMg5s

辞書上では「根拠のない悪口」があるが、先ほども述べたように「誹謗中傷」というパワーワードを使いすぎて陳腐化した結果、”傷ついた”という現象にフォーカスが強く当てられるようになった。
”傷ついた”というのも個々人の感覚によるものも相まって、誹謗中傷という言葉は、本来の守備範囲を超えた形で乱用されて陳腐化していっている。
では人はどのような言葉を投げかけられたとき、”傷ついた”センサーが働くのかを考えてみる。

あなたの”傷ついたセンサー”はどこから?

では”傷ついた”≒誹謗中傷されたと人が捉えるのは、どのようなパターンがあるのかを思いつく限り書き出していこうと思う。
※あくまで人が”傷ついた”と感じるパターンを列挙しているのみであり、裁判の判例とかではない。

A.特定のワード

一番わかりやすい例がこれであろう。そして、開示請求が通るパターンもこれだ。死ね、消えろ、殺すetc…一発退場モンの言葉は勿論ダメだ。しかし、この特定のワードというのも人によっての線引きがかなり難しいのも事実だ。
キモい・ウザいは悪口の代表例であり、もちろん賠償判例のある歴とした誹謗中傷の代表でもある。しかし、キモい・ウザいなどは「意志の訴求」と呼ばれ、もの凄く平たく言ってしまえば「私はこう思っている」というお気持ち表明でもある。(しかし、キモい・ウザいは言葉の攻撃力の高さから、誹謗中傷として見做される)

「意志の訴求」に代表される言葉は他にもある。

例えば、スポーツ観戦をしていたとしよう。そこで、ある選手が精細に欠けたプレーを頻発していたとしよう。もしくは監督やフロントが明らかに敗退行為をしていたとしよう。いい意味でも悪い意味でも”熱心なファン”たちはこう言うだろう。

練習しろ
下手くそ
やめろ

いわゆる野次に分類されるものだ。
これらも全て誹謗中傷だと捉える人もいれば、「意志の訴求」の範囲であると言う人もおり、しばしば論争を呼ぶ。
(ちなみにこれらは「意志の訴求」の範囲であり、誹謗中傷には当たらないとされている)

また、芸人に向かって「つまらない」は「死ね」と同義であると捉えている人もおり、考えれば考えるほど、意志・感想・批評と誹謗中傷の境目が曖昧なものだと再認識する。

「文脈に応じて判断すれば〜」と感じる人もいるであろうが、どんなに文脈では誹謗中傷の意図を感じなかったとしても、こうした「特定のワード」が入っていたら即アウト≒傷ついた判定をする人間もしばしばいるため、非常に難しい。

B.否定的な文脈

では、Aで挙げた特定のワードを使わずに「意志の訴求」だけを行った場合を考えてみる。例えば、芸人に対して「つまらない」は「死ね」と同義であると判断し、そのワードを使わずにいかに面白くなかったかを述べたかとしよう。確かにNGワードは使ってはいないが、全体の文脈を見回したら、「全体の要旨として、『あなたはつまらない、面白くない』を主張したい」ということを汲み取れた場合はどうだろうか。

これは誹謗中傷なのだろうか、それとも批評・批判の範疇なのだろうか。受けての判断に依存する形になってしまい、すれ違いからの論争が起きてしまうのではなかろうか。
いわゆる「批判したつもりなのに、相手が誹謗中傷だと怒り出した」or「誹謗中傷だと指摘したら、批判の範疇だと逆ギレした」というパターンがこれかもしれない。

C.客観的なデータを用いた場合

では客観的なデータや事実をもってすれば、誹謗中傷ではなく批評として見てもらえるのかといえば、そうとは限らない。

何を持って客観的なデータ・事実であるかと判断するには、人の思想や主観が、どんなに細心の注意を払っていたとしても、影響されてしまうからだ。
政治垢を覗いてみればわかりやすいかもしれない。
野党支持派の人が(その人にとって)正しい・客観的なデータを持って論評したとしても、与党支持派からすればそれは荒唐無稽なデマにすぎないかもしれない。また逆も然りだ。
つまりどんなに正しい・客観的なデータや事実だったとしても、違う立場からすれば「根拠のない悪口で、他人を傷つける行為」として捉えられるかもしれない。

では双方が正しい・客観的なデータや事実だと認識していれば問題ないのだろうか。答えは否であろう。「誹謗中傷」とは別で、「論破」と言う行為に分類される。「論破」もまた、被害感情を募らせやすく、また争いの種を産んでしまうだけだ。

D.ぶぶ漬けどうどす?

では直接的な言及を避けた場合はどうであろうか。
いわゆる「ぶぶ漬けどうどす?」(皮肉)だ。
直接的な言及をしていないからいいだろうと思うかもしれないが、皮肉という行為そのものが「遠回しに意地悪く非難すること」を意味しており、他人を傷つけるのが主としてあるため、傷ついた≒誹謗中傷されたとしてトラブルを招きやすい。

また皮肉という行為は、言った本人(ごく数人の取り巻きも)だけが「上手く言えた」と悦に浸る一方、言われた相手やそれを見聞きした第三者はただ不快になるだけの行為なので、現実でもネットでも使うべきではない表現である。

この他にも、本人に対して言っておらずただ「感想」を一人で述べているにもかかわらず、「私が言われた当事者だったら傷つきます、誹謗中傷です」みたいな第三者のなりきりによる誹謗中傷判定がされる場合もあり、ネットでは争いが絶えず繰り広げられている。

みんな違ってみんなダメ

法律は時として杓子定規な一面が強く出るときもある。「ダメだったら修正・廃止にすればいいじゃん」と思うかもしれないが、現状の手続論からすれば、そう簡単にはいかない。だからこそ、法整備する際は慎重な議論が必要だ。
恋愛リアリティショーで出演した女性が、番組を見た視聴者からの誹謗中傷で心を病み自殺してしまった痛ましい事件は、記憶に新しいだろう。
人々の「かわいそうだ」の嵐、お気持ちの嵐によって「誹謗中傷」の厳罰化への道ができた。

しかし、先ほども挙げたように人には人それぞれの感じ方・傷付き方が存在するため、一概に誹謗中傷というものを定義できない。
杓子定規の一面を持つ法律と人のお気持ちの要素が強い「誹謗中傷」というものは相性が最悪のようにも思える。

批判・批評のつもりであっても、とある人から見れば「誹謗中傷だと思った」と思われることもザラにあるのだ。

「誹謗中傷、みんなでやれば怖くない」ではなく、「誹謗中傷、みんな知らずにやっていた」なのが現実なのだろう。開示請求をされたか否かの差だけで。

だからこそ、みんな違ってみんなダメ、そんなスタンスでいるのが大事なのかもしれない。

私のnoteも誰かにとっての誹謗中傷なのかもしれない。

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ねずぴか
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