恋愛至上主義
昨日のnoteで最後に紹介した言葉の引用元は、太宰治の『チャンス』というエッセイだ。
あの言葉の本意は、太宰が
心がそのところにあらざれば、脚がさわったって頬がふれたって、それが「恋愛」の「きっかけ」などになる筈は無いのだ。
と言っているように、
「心がなければ、いくらきっかけがあったとしても恋愛に発展しないけれど、きっかけがなかったとしても恋は続く。だから、恋愛はチャンスではなく、意思である」
ということで、私は読んだ当時「確かになぁ」と思ったのだけれど、この他にも、このエッセイの中には太宰の面白い恋愛観が書かれている。
太宰はまずはじめに、「恋愛とは恥ずかしいものだ」と断言する。
恋愛を色欲のwarming-upと訳し、性的煩悶を恋愛という言葉でさも神聖なものとして扱うのは如何なものかと説き、恋愛至上主義を色慾至上主義と書き換えている。
どこぞの恋愛至上主義から刺されそうな案件である。
私も、昔は「んー」と首を傾げながら読んでいたわけだけど、確かに一理あるなと思う。
世の中の文章に登場する『恋愛』という言葉を、色慾と書き換えても、大抵意味は通じるだろう。
昨日のnoteの恋と愛のパラメータの話をすると、色慾とは恋に分類されるのだけど、『恋愛』と表される事象は、そのほとんどが色慾が色濃い恋の時期だと思うのだ。
その一方で、恐らく太宰が生きた時代ではなかった概念「Aセクシャル、Aロマンティック」はその限りではないと思う。
Aロマンティックはそもそも恋をしない性なので、『恋愛』なるものはしないのだけど、Aセクシャルは、特に太宰の恋愛観からは逸脱している。
彼らは恋をするけれども、太宰が紹介した『恋愛』を司る色慾を持たないのである。
男女の間に限らず、色慾というものは恋愛において大きな要素となる。それが、意識的であれ無意識的であれ。
恋というものが、相手に乞い願うことからきているのだとすれば、「セックスがしたい」という乞いは、その他の欲求と比べてより利己的なものではないかと思う。
Aセクシャルの人たちは、色慾による乞いはないのだけど、それでも、「独占欲」や「承認欲求」など他の乞いが介在して、彼らの"恋"を形作っている。
太宰が「恥ずかしい」とするのは、この如何にも利己的な欲求を、あたかも神様からの授かりものとして扱っていることなのだろう。
太宰は色慾に照準を当てていて、Aセクシャルのような存在を認識していなかったのだろうけど、Aセクシャルが人権を得てきたこの時代に、もし太宰が生きていたのなら、彼は同じことを言ったのではないかと思う。
「如何なる形でも(それが色慾を伴っていようといなかろうと)、恋というものは相応にして恥ずかしいものだ」と。
太宰は、利己的な欲求や姿を「恥ずかしい」と称することが多い。
太宰は、同エッセイ内でこうも言っている。
片恋というものこそ常に恋の最高の姿である。
これは、両思いになって仕舞えば、愛だの相手のためだので自分の欲求を思うままに追求することが出来なくなるけれど、片恋であれば、相手の意思が介在しないため、どこまでも利己的に思いを持ち続けることができるという事実から来るのかもしれない。
人と恋愛をすること、人と共にいること、恋愛関係になり得る間柄で友情を育むこと、また友人となることその全般。
それが消去法で導き出される関係でない限り、人間関係とはすべて『意思』である。
その人を愛したいと思うこと、恋をしたいと思うこと、友人になりたいと思うこと、それらは全て心の有り様であって、"うっかり" 人と恋愛をしたり友人になってしまうことはない。
すべての関係は、意思が先に来る。
だからこそ、恋愛関係になり得る間柄で友情も、「友人になりたい」という意思が互いにあれば、滞りなく成立するものじゃないかと思うのだ。
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