承認欲求と自己愛、それがSNS
メンクリで複雑性PTSDであると言われてからだと思うが、SNSを見るのがしんどくなってしまった。
複雑性PTSDの症状の一つであると思う。
それが強く出たのだろう。
そして改めて、SNS…とくにX(旧Twitter)について考えてみる。
私はXに投稿もメンションもしなくなってから数日が経った。
心配のDMを1通いただいたのみで、他はとくに何ごともない。
この時点で、自分はXにいなくても全然かまわない存在であることを思い知る。
Xは他者の投稿にメンションをすることで、相手に自分の存在を知らしめ、あなたの投稿を見ていますよという意思を伝える特質があると思っている。
ゆえに、自分の投稿に何のメンションもなければ、誰からも相手にされていないという疎外感を味わうことになる。
また、Xのアルゴリズムにもよるが、自分の投稿が他者のタイムラインに表示されなければ、その人にとって自分はいないも同然となる。
Xにおいては、投稿は自分の身体のようなものである。
その投稿である身体が他者から認識されなければ、それは他者にとって「自分は存在しない」ということになるのだ。
まさに今の私は、Xに存在しない者となっている。
これは自分以外のユーザーもみな同様かもしれない。
それゆえ、他者に配慮し、メンションをつけて回ったりしてはいないだろうか?
また、メンションだけでは解消されない疎外感があるかもしれないと思い、たまにはリプライしておくか、とか。
投稿をするということは、他者からの反応を少なからず期待しているはずである。
平たくいえば、構ってほしくて投稿するのである。
その根底には、承認欲求と自己愛がある。
それをわかっているから、気を遣うのではないだろうか。
承認欲求と自己愛を満たすために相互にやりとりをするのは(全てがそうではないだろうが)、双方の優しさあっての行為である。
しかし、気疲れする行為でもある。
気疲れすることをわかっているうえでXの承認欲求の激流に飛び込んでいく自分。
自分は何をやっていたんだろう。
浅ましいなぁ。
と思うのであった。
ところで、記事のヘッダー画像について。
できればイラストを描きたいのだが、面倒だったりアイデアがない場合は我が家の猫さんを置いている。
この場合、とくに意味はない。
(´-`).。oO