米津玄師とサラ・マクラクランの8つの共通点
私の大好きな2人のシンガーソングライターたちについて。そして、「音楽文」への感謝
みなさんは、サラ・マクラクラン(Sarah McLachlan)というカナダ出身のシンガーソングライターをご存じだろうか?彼女は特に北米ではよく知られているシンガーソングライターだが、日本での知名度はあまりない気がする。彼女の代表曲は”Angel”という曲で、ヴィム・ヴェンダース監督による映画『ベルリン・天使の詩』のリメイク版『シティ・オブ・エンジェル』の挿入歌となっており、耳にしたことがある人もいるかもしれない。私が中学生だった頃(1990年代後半)によく聴いていたラジオで当時放送されていた、アメリカのBillboardチャートを紹介する番組で、“Angel”が流れていた。美しくて儚い歌声とピアノの音色、やさしいのにどこかダークで悲しみを帯びたその曲に惹かれ、私は後日タワーレコードに行き、彼女のアルバム『Surfacing』を手に取った。そのアルバムには、10曲しか収録されていない。1曲1曲が暗闇の中に灯された炎のように、暗くて静かで、すごく孤独で、どこかひんやりと冷たくて、それなのに、やさしくて温かくて、とても美しく悲しかった。『Surfacing』は私にとって、冬の夜にぴったりなアルバムだ。冬の凍えそうな夜みたいな孤独に、そっと寄り添ってくれる音楽。押しつけがましくなく、適度な距離感を保ちながら、そばにいてくれる音楽。中学生の頃から、私はずっと彼女の音楽を聴き続けている。彼女のアルバム『Surfacing』と『Fumbling Towards Ecstasy”は、私の心の中で永久名盤となっている。
私は、自分がなぜサラ・マクラクランの音楽をずっと好きなのか考えていた。それは、自分がなぜ米津玄師の音楽を好きなのか考えるのと同じことだと気づいた。私の大好きなこの2人のシンガーソングライターたちの音楽に、私は前から、何か共通するものを感じていた。その共通する何かが、私がサラ・マクラクランと米津玄師の音楽をずっと好きでいる理由なのだと気づき、それをちゃんと言語化しておきたいと思った。私の非常に個人的な主観による、2人のシンガーソングライターの音楽における8つの共通点を今から順番に挙げていきたい。もしかすると、きっと他にもあるかもしれないけれど。
1.どこか悲しげで、さみしげで、やさしくて切ないところ。
まず感じるのは、米津さんとサラ・マクラクランの音楽は、いつもどこか切なくて、胸が「ぎゅっ」とか、「きゅん」となるのだ。もの悲しくて孤独なのに、やさしさや温もりもあるから、心地よくもある。相反する感情が美しく混じり合い、やさしく包み込んでくれて、泣きそうになる。めちゃくちゃ感覚的な話になるけれど、私にとっては、サラ・マクラクランの“I Will Remember You”や “Good Enough”、米津さんの”眼福”や”メトロノーム”がこれに当てはまる気がする。
2.童謡のように普遍的で心にスッと入ってくるところ。
多くのシンガーソングライターがそうであるように、米津さんもサラ・マクラクランも、きっと、基本的には今の自分が持つ感情、大人である自分の目線で音楽を作ることが多いと想像する。でも、2人の音楽には、子供の頃に聴いた童謡のような、懐かしさややさしさ、シンプルさがある。それが、老若男女問わず、子供も含め、幅広い世代の人たちの琴線に触れるのではないだろうか。米津さんの曲では、“パプリカ”や “こころにくだもの” 、”かいじゅうのマーチ” が、サラ・マクラクランの曲では、“Ordinary Miracle”や“Ice Cream”が思い浮かぶ。ちなみに、私はFoorinの”パプリカ”を初めて聴いたとき、懐かしさを感じて、子供の頃によく観ていたテレビアニメ『まんが日本昔ばなし』のエンディング曲”にんげんっていいな”をふと思い出した。
3.ひとつひとつの曲に物語性があって、情景が豊かで、スタジオジブリの映画のイメージと重なるところ。
またまた漠然とした、非常に感覚的なことを挙げてしまったが、サラ・マクラクランと米津さんの音楽を聴いていると、スタジオジブリの映画のイメージと不思議と重なる気がするのだ。もちろん、スタジオジブリの作品には、それぞれにこの上なく素晴らしい音楽があるのは百も承知の上で。米津さんとサラ・マクラクランの音楽は、森や木々、山、草原、澄み切った青空や海、そよ風、川、花々といった自然や、人々の日常が息づく街並みといった、ジブリ映画で描かれるような美しい景色や、物語の中で生きる人々の姿にも似合う気がするのだ。そして、いつかはやってくる別れと、それでも続いていく日々を生きる登場人物たちと、曲が持つ物語性がどこか重なる。サラ・マクラクランの”I Will Not Forget You”(日本語にすると「あなたを忘れない」でパプリカの花言葉と同じ)や”VOX”、米津さんの”love” と“フローライト”が、私の頭の中での個人的なBGMとなっている。
4.若い時と比べて歌声が変化していて、より表現力が豊かになり、深みが出ているところ。ファルセットが美しく、時に神秘的な響きがあるところ。
サラ・マクラクランも米津さんも、初期の頃と現在とでは、別人なんじゃないかと思うくらいに歌声が変化している。もちろん、声そのものが持つ質というか、個性は変わっていないとしても。サラ・マクラクランは、アルバム『Fumbling Towards Ecstasy』あたりから明らかに歌い方が柔らかくなり声に深みが出ているし、米津さんもアルバム『BOOTLEG』から明らかに歌い方が変化して、歌声のスケール感や表情、表現力が豊かになり、アルバム『STRAY SHEEP』ではさらに圧倒的な進化/深化を遂げている。そして、両者ともファルセットを多用し、儚さと美しさ、そしてどこか神秘的な響きを帯びている。サラ・マクラクランはほとんど全ての曲でファルセットを用いているが、特に”Fear” での超高音のファルセットは圧巻だし、“Full of Grace” では優しく包み込むようなファルセットが感動的だ。米津さんが“海の幽霊” や“カムパネルラ” 、“優しい人” 、“カナリヤ” 、“Pale Blue”で披露する美しいファルセットに、私はサラ・マクラクランと共通するものを感じる。
5.歌詞が文学的で美しいところ。ドロドロした感情を、美しい歌声とメロディに昇華させているところ。
米津さんとサラ・マクラクランの曲は、歌詞がとても文学的だ。米津さんの歌詞における日本語の美しさと言葉選びの秀逸さ、そこに宿る文学性は言うまでもないだろう。サラ・マクラクランの歌詞も、普段あまり使わないような詩的な単語が沢山出てくる。“Building A Mystery”では、吸血鬼(vampires)やラスタ服(rasta wear)、十字架(cross)、教会(church)、呪術の人形(voodoo dolls)、幽霊たち(ghosts)、社(shrine)といった神秘的なモチーフが沢山登場する(すべて、サラ・マクラクラン『サーフィシング』歌詞・対訳より引用)。これ以外の曲でも、サラ・マクラクランの歌詞は、まるで詩集のようにイメージ豊かな言葉が沢山出てくる。”Do What You Have To Do”や”Adia” の歌詞も全部引用したいけれど、キリがないのでやめておく。どれも抽象的なんだけれど、静かに燃える情念や狂気のようなものを感じる。このどこか不気味で狂気的なくらいの美しさは、サラ・マクラクランと米津さんの音楽に共通する部分だと思う。米津さんは、今までも様々なインタビューで、矛盾していてグズグズとした気持ちや、美しいものの中にある奇妙さや下品さを、音楽として昇華させてきた、という趣旨のことを語っている。それが米津さんの珠玉のポップ・ミュージックの数々、”アイネクライネ” であり、“Flamingo”であり、 “Pale Blue”なのだ。
6.ライヴでのパフォーマンスが「口から音源」、それどころか音源を超えているところ。
私は初めてライヴで米津さんの歌声を聴いたとき、すごくいい声で歌が上手いと思った。みんながよく言う「口から音源」というのはこのことか、と耳から鱗だった。ご本人も認めるくらい米津さんの曲は難しいにもかかわらず、米津さんはライヴでいとも軽々と歌い上げているように見えた。そして、音源よりもさらに、米津さんの歌声が持つ繊細さや温もり、力強さが伝わってきた。アルバム『STRAY SHEEP』のアートブック盤に付属のライヴ映像で、米津さんのライヴ・パフォーマンスを堪能することができる。サラ・マクラクランも、ライヴに定評のあるアーティストだ。『Mirrorball: The Complete Concert』は、1999年にリリースされたサラ・マクラクランのライヴ・アルバムで、歌声、演奏、アレンジの全てが本当に素晴らしい。正直、どの曲も、もとのアルバム版よりこのライヴ版の方が私は圧倒的に大好きだ。もちろん、アルバム版も素晴らしいのだが。この文章で挙げているサラ・マクラクランの曲は、ぜひこのライヴ版で聴いてもらいたいくらいなのだ。
7.ピアノやストリングスを多用し、ポップスとクラシック音楽的な要素を融合させているところ。
米津さんは”海の幽霊”以降、音楽家の坂東祐大さんとタッグを組み、自身のポップな音楽に、ピアノやストリングス、オーケストラといった、クラシック的な要素を取り入れてきた。米津さんと坂東さんの共同アレンジにより、米津さんの音楽に壮大さやより大きな普遍性が加わったと感じる。サラ・マクラクランも、クラシックや声楽のバックグラウンドを持ち、ピアノやストリングスによるアレンジを多用している。ポップスとクラシックを見事に融合させ、普遍的な音楽を奏でているところは、米津さんとサラ・マクラクランの共通点だ。
8.ダークなんだけれど、闇の中にも必ず光があるところ。暗闇の中にいる人たちに寄り添う祈りがあるところ。
私の中で、サラ・マクラクランの”Angel”と重なるのが、米津さんの“ゆめくいしょうじょ” だ。サラ・マクラクランは”Angel”について、「”天使”とは今日を乗り切るためのドラッグであると同時に、やめなければ私たちを死に導く存在なの」と語っている(サラ・マクラクラン『サーフィシング』日本語版ライナーノーツより)。サラ・マクラクランの音楽におけるこの両義性は、米津さんの音楽が持つ両義性ととても重なると感じる。以下は、”Angel”の歌詞からの引用だ。
《In the arms of the angel
Fly away from here
From this dark,cold hotel room
And the endlessness that you fear
You are pulled from the wreckage
Of your silent reverie
You’re in the arms of the angel
May you find some comfort here
日本語訳:
天使の腕に抱かれて
ここから飛び立つ
この暗く冷たいホテルの一室から
そして幾つもの永く心細い夜から
沈黙の白日夢が作り出す
瓦礫の下から救い出され
天使の腕にしっかりと抱かれている
どうかこの世界に安らぎを見いだせますよう》
(すべて、サラ・マクラクラン『サーフィシング』歌詞・対訳より引用)
そこにあるのは、善悪白黒つけようとするのではなく、ただただ孤独に寄り添おうとする祈りだけだ。それは、聴く人のことを完全に救ってくれるわけではない。むしろ、救いようのない孤独や悲しみがある。それなのに、救いがある。矛盾の中にある救い。闇の中にこそある光。そんな音楽。これと同じものを、米津さんの音楽にも感じる。
《君の悪い夢も
私が全部食べてあげる
痛いの痛いの飛んでいけ
安らかな歌声を》
《君の悪い夢も
私が全部食べてあげる
その涙で胸が痛いの
余りに残酷で
溺れた夜も 側にいておくれ
この朝に二人 夢を見た
飲み込むのが 怖い程
光を呑んだ 淡い夢》
(米津玄師”ゆめくいしょうじょ”より引用)
やっぱり、そこにあるのは、痛みに寄り添おうとする祈りであり、闇の中に灯る光なのだ。
以上が、ずっと私が思っていた、米津玄師とサラ・マクラクランの共通点。
最後に、もうひとつ。私にとって、素晴らしい音楽を聴いた時や素晴らしいライヴを観た時の感動や感情、思考は、ものすごく個人的で主観的なもので、他者と共有するというよりは、自分の心の中の宝箱に大切にしまっておけばいいのだと思っていた。でも、気づいたら私は、「音楽文」を通して、他者とそれを共有していたのだ。「音楽文」は私に、自分の思いを表現する場を与えてくれ、表現したいと思わせてくれた。また、私に、書くことの大変さと楽しさを思い出させてくれた。こんなにも素晴らしい機会を与えてくれた「音楽文」には感謝しかない。本当にありがとうございます。「音楽文」が終わってしまうという突然のお知らせを見たとき、驚きとさみしさが私の中に押し寄せてきた。日本有数の音楽出版社が、プロの音楽ライターではない人たちに、何度も自分の思いを表現するチャンスを与えてくれるようなすてきな場所は、きっとここ以外どこにもないから。でも、私は気づいた。すべてがそうであるように、いつかはなくなってしまうからいいのだと。いつかは消えてしまうからこそ、とても大切で、かけがえがないのだと気づいた。「音楽文」という場は消えてしまっても、「音楽文」が与えてくれたものは自分の心のなかにちゃんと残り続けていくと思う。音楽が与えてくれるものと同じように。