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朗読脚本『遺書2(ツー)』

遺言書、が法的効力を持つのに対し、遺書、あるいは今風にいえばエンディングノートというのは生前の気持ちを記しておく紙に過ぎない、と何かで読んだのを思い出しながら、文房具屋で封筒を選んでおりました。本日はお日柄も良く、僕が茨城県の南部にある実家を出て、大学をなんとか卒業してから、まもなく丸2年が経とうとしています。
僕は茨城県育ちではありますが、本籍は千葉県の銚子市というところにございまして、この近海は、日本で最大の流域面積を誇る利根川が太平洋に流れ込む、いわゆる汽水域にして、有名な漁場でもあります。また、その様相から屏風ヶ浦と名付けられた、幅約 10km に渡る断層が海 面から聳えており、その美しさから「東洋のドーバー」と呼ばれることもあるようです。近隣の土地は、一部は私有地にもなっているようですが、その気になれば観光客は切り立 った崖のすぐ側まで近づくことができます。

以下の文章は、健全であるときの僕と、健全ではないときの僕の時間的・空間的な継ぎ接ぎであり、例えるならそれは、甘美な四季の巡りのようで、火にかけて間もない鍋のまばらな熱伝導のようで、契約書に押された割印のようで、あるいは『自分のことは自分がいちばんよく分かっている』という眉唾に対する、ショーペンハウアーの悲観主義的な、試みです。

皆さまは、「人間の脳は、肉体の能力を 2 割から 3 割程度に抑えている」という生理学的な説明 をご存じでしょうか。もし力を 100%出し切ってしまえば、筋肉や骨が耐えきれずに壊れてしま うと言います。一方で、チームスポーツにおけるかけ声によって、あるいは、いわゆる火事場の 馬鹿力のように、極度の興奮状態に置かれると脳は無意識の制御を外し、普段は抑えられた力が 発揮されると言われています。海深くの謎を解くような、宇宙を探索するような、なんだか魅力 的な話です。 今よりもっと、頑張ることができたなら。成果を上げることができたなら。理不尽に詰められる こともないんだろうか。とうに息は切れたあとでの、もっと、もうちょっと、もう少しだけ、の 日々でした。

いつも行く道を帰ってみると 景色ががらりと違って見えた
出窓から 外を眺めるぬいぐるみ ケーキ屋さんの裏の窓 赤い自動販売機
透明がかった日常が 虚(キョ)をするりと抜け出して 実(ジツ)の世界に入り込む


離脱症状は初期微動によく似ています。それが酒に対するものだったのか、煙草に対するものだ ったのか、薬に対するものだったのか、今となっては分かりません。ゆらりゆらり、の前に来る、 ぐらぐら。部屋の中の、布団の中の、腕の中の、頭の中で、ほんとうは、命からこそ離脱したか った僕は、前後・左右・天地不覚の狂おしい微睡みに、たびたび、落ちてゆきました。

皓々(こうこう)たる月の時間 あるいは有明に 読むようにして道を歩く
看板の傷 人知れぬ信号の明滅 呼気が溶け込んだ小さな夜は いつしか世界の全部になった
眠りゆく街に 眠れぬ命を救われたのは

ぐらぐら、と言えば。僕の専門からは外れますが、哲学を学ぶということは、今まで前提として いたことが突き崩され、足もとが不安定になるような感覚を伴う、と教授が話しているのを聞い たことがあります。例えば、インドネシアの煮込み料理に「ルンダン」というものがあります。 食文化に精通している方は、ご存じかもしれませんが、初めて知ったという方が多いかと思いま す。 仮に、世界を捉えるのがワタシの主観だけであるという立場を取るとしましょう。まだそれを認 識していないとき、果たしてルンダンは、存在していると言えるのでしょうか。
モッタイナイ、という言葉が海外に浸透する前には、勿体ないという感覚はどのようにして共有 されていたのでしょうか。
あるいは、目を瞑っているときには、今の今まであったはずの世界は 「有る」と言えるのでしょうか。

寝ることと、眠ることとが同義ではないと知りながら、朝は死神の如く訪れます。
うるさい、ころしてやる。
叫びながら、無意識の、制御が効かない拳が、空を切って目が覚めることが増えました。肘のあ
たりに残る、激しい痛みと、痺れと、重み。肌着が汗でずっしりと重く、べたつきながら冷たく
なっています。こめかみまで揺らす拍動は、永遠に鳴り止まないような気がしました。

お疲れ様です。はい。「水野は繊細すぎるところがあるからなあ」「そこの住所とあなたの名前を 教えてください。いつか会いに行くからな」「俺は先帰るから、水野は残ってて」「それ なりの学校出てるんだからさ、それくらいやっといてよ」「俺からすれば、で?っていう話なの」 「水野、今日の敗因はなんだ?」「馬鹿じゃないんだから、それくらい分かるだろ」「すいません、 もう二度と来ないでもらっていいですか?」「診断書?やる気が無いんじゃしょうがないな」「親御さんに、いい年して迷惑かけてごめんなさい、って謝ったらどうだ」

そうか。決して器用ではない僕が、お金を稼いで生活を紡ぐということの正体は、きっと、部分
的な自殺なのだと悟りました。かつて、箱庭の中、楽観的な過信をもって「早く働きたい、社会
に貢献したい」などと宣っていたときの活力は、頭のてっぺんから足の爪先まで探しても、もうどこにも、残ってはいませんでした。

アイスの絵本、寝しなの音楽、リズム、雑誌、団地の友人
映画、散歩、ひとりの料理、テレビ、歴史、恋、その先へ
全ては嘘だが 本当だった


酩酊状態の中年の客に 2 時間近く、電話線越しに骨の髄まで詰(なじ)られたあと、心の中の辛うじて正常な部分に微(かす)かな引っかかりがあったことを覚えています。
「つまるところ、あなた方がやっているのは実業ではなく虚業なんだよ」
また、虚と実の話だ。そう思いました。僕が考え始め、考え続け、考えあぐね、考え疲れたそれ
らが、改めて影を落としてきたような心地がしました。彼の思惑や、発言の真偽はこの際脇に置
いておくこととして、僕は今まさに選び取らなければならない、そう感じました。

人生との一時休戦。

結局のところ、資本主義的な欺瞞に長い間絡め取られていた僕は、温かで陳腐な物語にありがち な、我慢の後に訪れる、外力による分かりやすい終わり、一発逆転的な救済を、心のどこかで待 っていたのかもしれません。
嫌だ。変わらずにいること、変えずにいることは、尊い反面、ただ傲慢な姿勢でもあると、よう やっと、認めることができました。そんな人生は、その主体たる僕としても、見世物にしたって 面白くない。自分だけで全てを受け止め、最後まで立っていること。それもまた、ひとつの強さ の指標であることは疑いようがありません。ただ、それが叶わぬとき、一歩、後ろに退いてみる。 弱さに向き合うということに、向き直る。
僕を温(ぬく)めるあなた方の豊かさが、満ちてどこ か、誰かに溢れるまで、あるいは、ごちそうさまのあと、汁椀の底に残る味噌汁のよう な僅かばかりの反骨が、僕を再び、未来に駆動するまで、もう少しだけ待っていてください。どうか、どうか。

さて。「以下」で始めた文章ゆえに、最後は「以上」で締められねばなりません。しかし、曲がり なりにも語り手の役割を終え、独りに戻るのが怖いのです。ちょうど、音楽を聴きながら歩いた のち、目的地に着いてイヤホンを外したときのような、高揚のあとの静けさが怖いのです。
それでも。


遺書、あらため、今日のうた

いつも行く道を帰ってみると 景色ががらりと違って見えた
出窓から 外を眺めるぬいぐるみ ケーキ屋さんの裏の窓 赤い自動販売機
透明がかった日常が 虚(キョ)をするりと抜け出して 実(ジツ)の世界に入り込む
皓々たる月の時間 あるいは有明に 読むようにして道を歩く
看板の傷 人知れぬ信号の明滅 呼気が溶け込んだ小さな夜は いつしか世界の全部になった
眠りゆく街に 眠れぬ命を救われたのは
アイスの絵本、寝しなの音楽、リズム、雑誌、団地の友人
映画、散歩、ひとりの料理、テレビ、歴史、恋、その先へ
全ては嘘だが 

来(きた)るものは愛 去るものも愛

以上。

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