加算的つまらなさを超えて――小さな身体的経験にこだわる
加算的つまらなさ
リファクタリング第2版を開けてみる。さまざまな細かな事象に沿ってリファクタリング、つまりプログラムを安全に改善する戦術が網羅的に掲載されている。
「つまらない」
壁、退屈な感情が湧き出ていた。
この本を見たときのつまらなさ。吐き捨ててしまいたくなる。何か、ある場面にはこれ、そしてこの場面にはそれという正解がありますよとでも言うかのように見えてしまっていた。大きな統一的な解を求めていた。
六法全書的つまらなさ――加算的つまらなさ。膨大な意味を脳がシャットアウトした結果のつまらなさだ。
目次に目を通す。一見つまらなさそうだなと思う。私は、自分が魔法のようにレベルアップする効率的な一つの線を求めていたから、退屈に思ってしまった。
個別具体的なケーススタディがとても大切だ。プログラミングでは事象に対して、どう対応するか。その技芸が問われている。事象に対して、どの複雑性を捨てて、ある複雑性にのみ焦点を当てるということ。いかに、測定や記述可能な側面を抜き出し、機能・制約とのバランスを取るかということが大事になってくる。
プログラミングは、既存の問題の複雑性を減らして解決する。
プログラミングそれ自体は、あくまで手段である。不要な複雑性をいかに削ぎ落とすか。
たとえば命名のような概念づけは、あくまで「考えずにすむ」ための命名だ。難しいことを考えずに、既存の問題をシンプルに解決するためのもの。決して問題を作り出して考えるためのものというわけではない。哲学のように、表象し難い差異を表現するために使われているわけではない。
個別のドメインの複雑性に対処すること。そのために考えなくて済むように上手に切り出すということだった。
リファクタリングの本の大切なところは、個別具体的な例をできるだけ載せているということ。
うまく自分の血肉にできないだろうな、つまらなさそう。これは、全て同じ密度で取り込もうとするからだ。個別は一つを取り込むことで、他の個別事例に広げることができたりすることがある。たとえば、エラトステネスの篩にかけるときのように、徐々にだけれどだんだん網羅的に取り込むことができるはず。
もう少しだけ、加算的つまらなさに付き合うこと。このつまらなさは、一見一般化できなさそうだ、という先入観だった。個別的つまらなさは広がりをもたらす。個別具体に散らばっているように見えるこの本の良さは、その散らばりにある。
感情=身体はそれ自体かけがえのないものである。情報とつながりが多くなる。つまり、具体的な例を学ぶことの尊重、一般ではなくむしろそちらの方へよってみること。
プログラミングに於いては、具体に意味を通せることが力となる。遭遇した既存の問題という針に、意味の糸を通す手数が課題となる。
加算的つまらなさに、何か別の演算を持ち込む。別の広がりを持ち込む。
プログラミングの個別事例に限っては確実に、加算的ではない別の広がりが存在する。
個別具体的で矮小に思える出来事について、それらの有機的な化学反応があるかもしれない。個々の意外なつながりがある。
身体を通して得た、経験知は重要だ。プログラミングをしていると、わかりやすい意味を求める。シンプルに、複雑性をいかに削ぎ落とすかが主題だからだ。だからこそ、身体を通してからこそわかる意味傾向は武器になる。
一見分からない、は宝物である。
広がりへと翻って――無意味の暴力を身体的に経験する
膨大な意味を切断し、有限な意味にすることで他の事例へと広げる。そういうことについて考えた。加算的なつまらなさ=個別に全て対応するべき、についても開くべきだと考える。
場を広げ、オープンにして力の流れや渦を作ることが、ここ最近のテーマになっている。一見無意味なものに開くという方向性だ。
広げること、これ自体直感には合わない。オープンな力の大きさを想像することができない。塊と塊の有機的な化学反応について予測できない=アンコントローラブル。
力が入ってくることというのは不快である。つまらない異物に付き合って、そのままその時間が無駄になってしまったらどうなるんだろうか。コントロールできないことへの恐怖と、苛立ちだ。
経験をして初めてわかることがある。つまり身体を通じて初めて、膨大だった意味が有限化する。「個別具体的で、加算的にしか見えなかったつまらなさ」にある特定の意味傾向、線を見出すことができるのではないか?
経験が大切だ。
それも身体的な経験が大切だ。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶというが、賢者は身体的経験を得られる範囲が広い、ということを意味している。
どうしても苛立ちを感じてしまう。「わかる」という幻想を得られない、アンコントローラブルについて腹が立つ。つまらない異物=個別具体的で矮小に思える経験に、身を開くこと。そういう身体的経験が大切だ。
プログラミングは、幻想を実現することである。範囲を限定することで、現実化する。私がしたいのは、それではなかった。
私がしたいのは、自らの生を生きること。
「一見分からないを宝物視し、全ての個別具体的――加算的な経験に意味を求める行為」は目的を見出している点で、ヘーゲルの弁証法的である。いずれ意味が現前することを期待している。
差延的に受容するとすれば、意味のない、それ自体がただ存在しているだけ、みたいな無意味も受容する必要がある。そちらのほうが、より大切だと思う。
もっと、ただの暴力的な無意味に開くこと。他者は暴力的である。人間と対話するのは、常に一定の暴力が働いている。意味の分からない暴力がそこにある。
オープンにすることと文章
オープンにして共同作業をするというのは、文章を多く書くということと似ている。それも、多くのぶつ切りのブロックを書くことと似ている。
個人のやることを少なくすること。一つ一つの文章の塊をぶつ切りにして、やることを少なくすること。それぞれのブロックの役割を狭めて、むしろ開く。庭の外側にある木を、剪定するように。外側とのつながりを持てるような広がりを作ってあげる。
関係性を使ってものを言う。ドゥルーズが、語彙をそれぞれの組み合わせで明示的に意図するものを変えたように。
ぶつ切りをたくさん持つことだ。するとぶつ切り同士の関係性が生まれてくる。ぶつ切りの文章は、オープンな力である。それぞれに線を引くことができ、有機的な織物が作られる。やりすぎず、完成されない文章をしばしば持っておくこと。
自分だけ得したいと思って、一つの文章にたくさんの意味を込めるというのが、閉じてしまうことに繋がるのだろう。大きな塊の文章を、欲張って書くこと。
そうではなく、小さく切ることで広げられる。
つまり、個別に小さく潜っていくこと。そうすることで、膨大な意味は有限化される。身体によって、感じられるある程度の範囲になる。
そして、小さな無意味の暴力を身体によって受け・流すこと。生は変化する。受けた苦しみを、変化させ流すことができる。
小ささにこだわる。
小さな身体に意識を向ける。